半坪ビオトープの日記

佐原の観福寺


佐原駅の南東の小野川沿いに佐原の歴史的町並みエリアがあるが、さらに南の町外れの牧野に観福寺がある。観福寺は真言宗豊山派の寺院で、山号は妙光山という。参道から境内にかけて、春は枝垂れ桜、初夏は新緑、秋は紅葉と季節感あふれる趣を味わえる。

千葉氏の祈願所として歴代武将の篤い信仰を受け、中世以降、佐原の伊能家一族の帰依を受けるようになり、江戸時代には末寺五十三ヶ寺をもつ中本山として厄除け大師信仰の中心となって庶民の信仰を集めた。
木々に覆われた薄暗い参道を抜けると、本堂の手前に弘法大師の修行大師像がある。観福寺は、弘法大師が布教の折に泊まったのが始まりと伝えられ、寛平2年(890)尊海僧正の開基という。

本堂は、文化8年(1811)鐘眞和尚により再建された。香取神宮本地仏として神宮寺の金剛宝寺にあり廃仏毀釈の難にあった、銅造懸仏4点が奉納されている。弘安5年(1282)銘の釈迦如来座像・十一面観音座像は、元寇に際し戦勝を祈願して造立された。延慶2年(1309)銘の地蔵菩薩座像および無銘の薬師如来坐像とともに、国の重文に指定されている。

本堂前の境内から一段上がった高台に建つ観音堂は、元禄年間に春海和尚により建立された。

観音堂には、平安時代後期の作と推定されている、本尊の聖観世音菩薩像が安置されている。

この聖観世音菩薩像は、平将門の守護仏と伝えられる。

観音堂の手前左側奥には大師堂が建っている。文政12年(1829)秀珍和尚により建立され、弘法大師像が安置されている。川崎大師、西新井大師とともに関東の三大厄除弘法大師の一つと称される。本寺が中心となって行われる札打ちは、この大師信仰のひとつで、香取郡内、佐原市一円の寺院に四国八十八箇所の札所を模して巡拝するもので、250年の伝統がある。

観音堂の右手には、文化8年(1811)建立の袴腰付鐘楼堂が建っている。

鐘楼堂の右手を進んだ突き当たりには、伊能忠敬の墓および伊能家代々の墓がある。

高台から下りたところに、不動堂が建っている。快恵和尚により、文化15年(1818)に再建された。身丈5尺、総高8尺の不動明王像を安置している。向拝の龍は、後藤安五良常善の作という。