半坪ビオトープの日記

吉備津神社


岡山市西部、備前国備中国の境の吉備の中山(175m)の北西麓に北面して、備中国一宮・吉備津神社が鎮座している。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。両社とも主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀る。吉備津神社は本来、吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国一宮(吉備津彦神社)、備後国一宮(吉備津神社)となったことから、備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。古くは、吉備津五所大明神とも称した。延喜式神名帳(927)では吉備津彦神社と記載され、名神大社に列している。

長い正面石段の途中、拝殿手前に北隋神門が建っている。単層入母屋造檜皮葺、天文11年(1542)の再建であり、国の重文に指定されている。
吉備津神社主祭神大吉備津彦命は、第七代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと)という。『記紀』によれば、崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。

相殿神として、次のような大吉備津彦命の子孫や兄弟を祀る。御友別命(子孫)、仲彦命(子孫)、千々速比売命(姉)、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)(姉)、日子刺肩別命(兄)、倭迹迹日稚屋媛命(妹)、彦寤間命(ひこさめまのみこと)(弟)、若日子建吉備津日子命(弟)。社伝によれば、祭神の大吉備津彦命は、吉備中山の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなり山頂に葬られた。5代目の子孫の加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする説もある。また、吉備国行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を創建したという説もある。『続日本後紀』で、承和14年(847)に従四位下に神階を受けた記載が最初である。
拝殿は本殿と同時に造営され、桁行三間梁間一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続する。正面と側面には裳階を設ける。屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする。

本殿・拝殿は、明徳元年(1390)後光厳天皇の命で、室町幕府足利義満が応永12年(1405)に再建し、応永32年(1425)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造平入りの拝殿が接続する。本殿・拝殿は棟札2枚とともに国宝に指定されている。
本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響が見られる。地面より一段高く、漆喰塗りの土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行五間、梁間八間で屋根は檜皮葺とする。壁面上半には神社には珍しい連子窓を巡らす。挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿に大仏様を応用した唯一の例とされる。

本殿の左手に神木の大銀杏が立っている。樹齢は約600年といわれる。

本殿の比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。城郭建築では姫路城や名古屋城に見られるが、寺社建築では極めて珍しい屋根形式であり、このように横から間近に見られるのも稀である。

本殿の斜め左後ろに一童社が建っている。学術・遊芸の神を祀っている。

本殿の西側には長い回廊が続いていて、本殿の後ろから割り込んで南に下っていくと、すぐ左側(東側)にえびす宮が建っている。商売繁盛・家業繁栄の神(夷と大黒)を祀っている。えびす祭りは多くの人で賑わい、備中神楽も奉納される。

えびす宮の次は岩山宮の鳥居があり、あじさい園の先の中山の麓に岩山宮がかすかに認められる。吉備国の地主神(国魂)である建日方別を祀っている。神体は自然の巨岩であるという。
回廊の山麓(東)側に多くの建物があるのだが、その反対側(西側)に御釜殿があるのを見過ごしてしまった。慶長17年(1612)の造営。御釜殿の鳴る釜神事は、江戸時代に上田秋成が著した『雨月物語』の「吉備津の釜」の話で有名である。

さらに下っていくと回廊の山麓(東)側に朱塗りの柱を有する社が3つ並んでいる。左より春日宮、大神宮、八幡宮で、総称して三社宮と呼ばれる。

三社宮の次には御供殿がある。春秋に行われる大祭の献饌行事の七十五膳据神事の際、この御供殿にて七十五膳などの神饌、神宝類、供物などを準備する。

回廊の南端を左に曲がると本宮社の拝殿が建っている。本殿は二間三間の流造である。岡山城主・宇喜多秀家が再建した。元は吉備津彦の父君・孝霊天皇を祀っていたが、明治末年、新宮社と内宮社を合併したので、現在は天皇のほか、吉備津彦命やその母・百田弓矢姫名を合祀している。

回廊から戻ると南隋神門を通る。単層入母屋造本瓦葺、延文2年(1357)の再建で、吉備津神社では最古の建築物である。南隋神門からいま往復してきた長い回廊を振り返って見る。回廊は天正年間(1573-91)の造営とされ、総延長は398mである。