半坪ビオトープの日記

倉敷、大原美術館 


岡山市の西、総社市の南に倉敷市がある。古来より交通の要所で、高梁川の支流・倉敷川は運河として利用され、江戸時代には商人の町、明治時代には繊維産業の町、近年は工業都市、そして文化観光都市として発展して来た。その中心に白壁や倉敷川に沿った柳並木が美しい倉敷美観地区がある。

倉敷美観地区の中央を南北に流れる倉敷川の西側には大原美術館や倉敷館、倉敷民藝館があるが、東側には旧大原家住宅、同別邸有隣荘、倉敷考古館と、白壁土蔵のなまこ壁に、軒を連ねる格子窓の町屋など情緒豊かな伝統的な町並みが続いている。

倉敷川に沿う歩行者専用道路には、美しい町並みを楽しむ観光客が一日中ひっきりなしに行き交う。大原美術館の入り口付近も石垣に蔦がまとわりついて、周りの雰囲気に一体化している。

大原美術館は、昭和4年(1929)に児島虎次郎が亡くなったことを悼み、その支援者であった大原孫三郎が建設を計画し、総社市出身の薬師寺主計の設計で、翌年、日本初の私立西洋美術館として開館した。エル・グレコの「受胎告知」やクロード・モネの「睡蓮」、セザンヌの「水浴」、ドガの「赤い衣装をつけた三人の踊り子」、ホドラーの「木を伐る人」をはじめとする西洋の名画を数多く展示している。高校の修学旅行で観たことを懐かしく思い出したが、残念ながら館内は撮影禁止である。

開館当初に建てられたギリシア神殿風の本館正面右側には、ロダン(1840-1917)の「カレーの市民」のブロンズ像が立っている。左右の両作品は、大正12年(1922)、児島虎次郎がロダン美術館で交渉し、鋳造してもらった像である。昭和18年(1943)、長引く戦争の兵器製造のため、このロダン銅像2体にも金属供出命令が出されたが、岡山県が「供出の必要なし」と極めて稀な免除の決定を下したため、かろうじて供出を免れたエピソードが残っている。

正面左側には「洗礼者ヨハネ」のブロンズ像がたっている。聖ヨハネはキリストに洗礼を授けた人で、それ以前の絵画では、聖書の内容を踏まえ、幼児あるいは荒野で修行中のやせ衰えた姿で描かれていた。ロダンは、前へと人々を導いていこうとする逞しい姿で表現している。この「説教するヨハネ」は、分館前庭に設置されている「歩く人」に頭と手をつけて完成されたものといわれる。

本館から裏手の分館へと至る間に、新渓園という日本庭園があり、敷地内に和風建物が建っている。明治26年(1893)倉敷紡績の初代社長・大原孝四郎の別荘として建設されたもので、大原美術館の増築に合わせて建物も増改築された。

敷地の南端にコの字形に設けられている大原美術館分館は、近代日本の洋画、古代オリエント美術を展示している。前庭には多くの彫刻が並べられている。左手の黒い石は、速水史郎の「道しるべ」、その右手にロダンの「歩く人」がある。

分館の入口前には、ヘンリー・ムーアの「横たわる母と子」の彫刻が展示されている。

さらに右手の灰色の板を組み立てた作品は、イサム・ノグチの「山作り」である。

本館の西隣には、米蔵を改築・利用した工芸・東洋館が建っている。工芸館の陶器室にはバーナード・リーチ、版画室には棟方志功、染色室には芹沢硑介の作品がある。東洋館には、児島虎次郎が収集した中国の古美術などを展示している。