半坪ビオトープの日記

宇倍神社、本殿


三徳山三佛寺を参拝登山した後は、鳥取砂丘宇部神社だけを見て最後の一日とした。鳥取駅の東数kmほどにある宇倍神社は、大きな石鳥居のある石畳の参道を200mほど歩いた先にある。

百人一首に「立別れ因幡の山の峰に生ふる松としきかば今かへり来む」と在原行平(業平の兄)に詠われた、稲葉山の西南麓に鎮座する。宇倍神社は、『延喜式神名帳』に名神大社とある因幡国の一宮で、武内宿禰命を祀っている。苔むした参道の先にある拝殿の前には、右近の橘(向って左)と左近の桜(向って右)が植えられている。

現在の社殿は、明治31年に完成したが、翌32年には全国の神社で最初に社殿と武内宿禰命の図柄が五円紙幣に採用された。以後数回五円・一円紙幣に採用されて、お金に縁のある商売繁盛の神社として有名になった。

階段を上って拝殿前の左手に「福徳亀」が置かれている。亀の形をした自然石で、なでると願いが叶うという。

拝殿の右手には「飛躍の鳥」が置かれている。

二十二社註式』にある大化4年(648)の創建以降たびたび再建され、明治31年に造営された現在の本殿は、正面三間側面二間の三間社流造檜皮葺きの正面一間に向拝を縋破風で付け、千木・鰹木を置く。祭神は、武内宿禰命を祀るが、異説もある。『神祇志料』により、稲葉国造の祖・彦坐王の皇子、彦多都彦命とする説や、当社神官であった伊福部氏の祖神・武牟口命とする説がある。また、伊福部氏は因幡の古代豪族で、同氏の系図因幡国伊福部臣古志』(784)によると、14代武牟口命が、朝廷の命で因幡の夷住山に住む荒海を討伐したとの伝承を伝えている。宇倍神社は、嘉祥元年(848)に従五位下を授けられ、元慶2年(878)には正三位にまで達し、伊福部氏の成長を窺わせる。

当地は武内宿禰の終焉の地と考えられていて、その石碑が本殿の左手に立てられている。

本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿も、本殿と同年に再建された。

拝殿前に立つ神門もしっかりした造りで飾り金具が金ぴかに光っている。神紋は、亀を図案化した「亀崩し」という紋である。