半坪ビオトープの日記

総社宮、拝殿の絵馬


総社宮が貞享4年(1687)に再建された翌年、彩色二十四孝の絵馬が奉納された。これにより商家の信仰が増し、豪商の西戎屋等により京都の一流画家の描いた絵馬が奉納されるなどして繁栄した。周辺は門前町・宿場町として発展し、のちの総社市の礎を築いた。

拝殿手前の回廊上部には、この辺りで盛んという「備中神楽の面」が奉納されている。拝殿向拝に吊り下げられているしめ縄の上の虹梁には、身を乗り出すように躍動的な龍の彫刻が施されている。

総社宮の拝殿には、円山応挙らにより描かれた有名な絵馬がたくさん奉納されているというので、中を覗いたがよくわからない。前殿正面の「總社」の扁額は、出雲大社宮司が書いたものを人間国宝の木工彫師・片岡誠喜男が彫ったものという。

「東京からはるばる見に来たのだが、絵馬はどこにあるのですか」と宮司さんに尋ねると、幣殿の奥の祝詞殿まで案内され、一枚一枚丁寧な説明を受けた上に、写真撮影の許可もいただいた。祝詞殿正面には「惣社」の扁額が掲げられている。古来より総社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)は、惣社とも表記されてきた。

祝詞殿の右側には、総社宮で最も有名な、円山応挙作の絵馬「義家観雁図」が奉納されている。この絵馬は、源義家後三年の役の時に、雁が列を乱して逃げたのを見て伏兵を察し、勝利を得た故事を絵にしたもので、西戎屋三代目の亀山平三郎直綱が明和3年(1766)に奉納したものである。「義家観雁図」の手前には元禄時代の「年中行事図」があり、祝詞殿の左側には「猿駒曳図」や「虎図」などがある。

祝詞殿の手前の幣殿の左側には、「林和靖図」がある。中国宋代の儒学者・林和靖が鶴に餌をやっている場面で、京都四条流の画家・大原呑舟が描いた絵馬である。林和靖は初めて漢方薬を作った人といわれる。

「林和靖図」の手前には、「舞楽図」がある。雅楽の曲目の一つ、「蘭陵王」にて、中国6世紀北斉の眉目秀麗な名将・蘭陵王が獰猛な鬼面をつけて戦に大勝した故事を絵にしたもの。嘉永2年(1688)の奉納だが、作者は不明である。

幣殿の右側には、「義家・貞任・宗任三士図」の絵馬がある。画家は谷文晁の弟子・石川晃山で、嘉永2年(1849)丸屋孝次郎が奉納した。前九年の役源頼義・義家父子に安倍頼時が敗れた後、子、安倍貞任・宗任が跡を継いだ。その後、清原氏が頼義軍に参軍して安倍貞任・宗任兄弟は敗れ、安倍氏は滅亡した。その時の様子は源氏の神話化の原点として繰り返し語られ、多様に伝説化している。

幣殿の一番手前、拝殿に向かって三面の小壁には、貞享5年(1688)に堀六左衛門元幸により奉納された、二十四孝図の絵馬が掲げられている。総社宮の絵馬の中で最も古いものである。内側から見て左の小壁の一番左に「陸續(りくせき)」、次に「山谷(さんこく)」、「田眞三兄弟」、「呉猛」、「張孝兄弟」と五人続く。

正面の小壁には左から、「庾黔婁(ゆけんろう)」、「剡子(ぜんし)」、「蔡順(さいじゅん)」、「朱壽昌(しゅじゅしょう)」、「郭巨(かくきょ)」、「王裒(おうほう)」、「董永(とうえい)」と続く。400年も経っているわりには、保存状態が良いといえよう。

正面小壁の中央から右端にかけて、「黄香」、「楊香」、「唐夫人」、「姜詩」、「老菜(采→来)子(ろうらいし)」、「王祥」が並び、角から右の小壁にかけて、「曾參(そうしん)」、「閔子騫(びんしけん)」、「孟宗」、「丁蘭」、「文帝」と続く。最後にその右が「大舜」であろう。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。右端上にその時の象の画が認められる。天子の堯は、意地悪な父に対しても孝行を続ける舜に感心し、娘を娶らせ天子の座を譲ったという。中国五帝の一人、聖人「堯・舜」の虞舜である。