半坪ビオトープの日記

菩提寺


津山から北東方向に那岐山(1255m)があり、その南麓にある菩提寺に向かうと、すぐ手前に那岐山麓山の駅があったので立ち寄った。アルプスの民家を模した山の駅には、ウィンナーや豆腐作りなどの加工体験や農業体験メニューがあり、コテージに泊まることもできる。

山の駅からさらに進むと、伊邪那岐命の神霊が鎮まっているという那岐山の中腹、標高600mのところに浄土宗の高貴山菩提寺がある。持統天皇の治世(686~97)に役小角が、あるいは天平年間(729~48)に行基が十一面観世音菩薩像を安置して開基したと伝えられる。平安時代には七堂伽藍を備え、36坊を誇り、中世には菅家七党の尊崇を受けた古刹だったが、建武3年(1336)に播磨国の守護新田義貞勢の兵火により、康安元年(1361)には伯耆守護山名時氏の焼き討ちにより、また天文2年(1533)には出雲国戦国大名尼子経久勢の兵火によって寺運は衰え、江戸時代半ばには荒廃していたという。江戸時代後半には次第に寺の整備が進められたが、万延元年(1860)には火災により鐘楼を残して本堂・庫裡・仏像などが焼失した。明治10年(1877)浄土宗として再興され、明治14年に本堂が、続いて庫裡・山門などが再建されたというが、山門はさほど大きくはない。

山門の内側に「御礼」が貼られていた。明治初期に再興された本堂も約130年経ち、屋根は崩れ床は落ち酷く荒れ果てたので、平成の浄土宗僧たちが一大発起し復興を志し、地元の方々、参詣者の皆様の賛同協力を得て荘厳に蘇らすことができ、厚くお礼する、という趣旨の礼状である。平成23年から翌年にかけて修復された様子の写真も一緒に貼られていた。

参道の左右には堂塔や僧坊跡を忍ばせる段丘状の遺構があり、平安時代末期の土器片も出土している。

菩提寺は浄土宗開祖法然(幼名勢至丸)初学の地として知られる。保延7年(1141)9歳の時、押領使の父漆間時国が夜討ちで殺された際、母方の叔父の僧侶、菩提寺に住む観覚の元に引き取られた。

勢至丸の才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、13歳の時得度させて比叡山に送り出したと伝えられる。昭和時代中期までは、久米郡久米南町法然生誕地に立つ誕生寺と同じく、二十五菩薩練供養(来迎会)が行われていた。中古の記録によると本堂は九間四面だったとされるが、明治に再建された本堂は五間四面で、格天井には彩色された家紋が300以上も並んでいる。

高貴山菩提寺の宗門は、法相・天台・浄土・真言と変遷し、明治に浄土宗として再興された。略縁起によれば、堂内には嵯峨大覚寺から文久元年(1861)招来したと伝わる、本尊の十一面観世音菩薩坐像、芝増上寺から万延元年(1860)招来したとされる阿弥陀如来像や、同時に奉納された冷泉為恭作という法然15歳の勢至丸像が安置されている。

本堂の東の境内には、法然が学業成就を祈願し、突き立てた枝が成長したとされる大イチョウがそびえる。

樹高約45m、目通り周囲約12m、推定樹齢900年を超える、県下一の大樹で、国の天然記念物に指定され、全国名木百選にも選ばれている。

本堂の東側には、杉の樹林に囲まれて、菅家武士団の墓と伝えられる、鎌倉〜室町時代の石造五輪塔・宝篋印塔群が林立している。

イチョウから本堂へと戻る途中、長さ70cmほどのマムシと思われる蛇が悠然と進んでいるのに出くわした。頭をもたげる戦闘体勢ではなかったので、マムシと確認するために、気味悪いができる限り近づいて紋様を写真に収めた。後日、図鑑でマムシと確認できた。年平均3000人が噛まれるそうだが、走ってでも早く医療機関に行って血清投与する必要がある。