半坪ビオトープの日記

西圓寺、鯨墓


海上からの遊覧の後、青海大橋を通って青海島に渡る。王子山公園には展望台があり、そこから仙崎の町並みを見渡すことができる。

島に渡って、国の天然記念物である大日比夏ミカン原樹を過ぎると間もなく、西圓寺(西円寺)がある。もと真言宗であったが、元禄9年(1696)向岸寺の讃誉上人によって浄土宗の鎮西派として再興された。

参道入口左側には「大日比三師遺跡の碑」が建てられている。大日比三師は、江戸時代の中期・後期に西圓寺から輩出した、法岸、法州、法道という名僧で、その頃から西圓寺は浄土宗布教の根本道場として栄えた。

山門はもと、毛利家の菩提寺の一つ萩の大照院の楼門であり、明治4年(1871)の寺禄廃止に伴い移築されたものである。

材質に欅を主体とし、3間二重門、正面・背面に向拝1間が付いた、禅宗様の意匠に工夫を凝らした格式ある山門である。建立年代は、寛政年間(1790年代)と推定されている。

本堂は伝存の棟札によると、文政8年(1825)の建造であり、入母屋造本瓦葺正面9間、側面8間の方丈形で、材質は欅を主体とする。向拝がなく、入口を左右両端に設ける特異な形式をもち、向かって右側から女性が、左側から男性参詣者が出入りするようになっている。大日比流と呼ばれる高唱念仏の読経方法が特徴で、本堂はもっぱら念仏と御講説の場とされる。宝物殿には、大内義隆の守り本尊千手観音像、諸名家の遺墨集「古手鏡」、200年前の入歯などがある。

鐘楼はなく、本堂の左側の軒下に梵鐘が吊るされている。本堂の奥行きは8間もある。

境内には県の天然記念物であるアオバス(青蓮)がある。蕾の時は青色、開花時は純白となる。西圓寺の寺伝によれば、堺の僧澄円が入唐した折、廬山から持ち帰り、これを宮島(広島)の光明院学信が持っていたものを文政5年(1822)法州上人が貰い受け、播種したものという。このアオバスは廬山白と称す品種で、その白い花はハスの中で最も美しいとされる。
アオバスの左奥には、法然の幼少時の勢至丸像が安置されている。

青海島は北東部で細くくびれていて、その北側には自然研究路があって十六羅漢や象の鼻などの奇岩群を断崖の上から眺めることができる。さらに東に進んだ通地区には、鯨墓やくじら資料館がある。資料館には長門捕鯨用具や古式捕鯨の様子がわかる写真などの資料がたくさん展示されている。

青海島東端の通浦は、江戸時代前半より捕鯨が盛んで、仙崎湾に入り込んだクジラを網を用いて補足し、銛で仕留めた。捕鯨時期は10月から3月の冬場で、回遊してくる「下り鯨」と称するザトウクジラやセミクジラなどを捕獲した。「鯨1頭獲れば7浦賑わう」といわれ、萩藩でも「鯨運上銀」を課す一方で保護奨励策をとった。鯨運上銀は、当初1頭につき銀300目ないし400目で、元禄年間(1688-1704)1頭の値段が銀10貫目くらいであったことから、約4%であった。

資料館の山手側の階段を上がると、向岸寺住職の隠居所であった清月庵観音堂の境内に鯨墓がある。

延宝7年(1679)に向岸寺5世住職讃誉上人が、鯨の胎児を哀れんで埋葬し、読経念仏して回向を手向けたといい、元禄5年(1692)には鯨組網頭らが埋葬地に鯨墓を建立した。花崗岩で作られた鯨墓は、高さ2.4m、幅46cmで、墓の背後の空き地には、200年以上にわたって明治時代まで埋葬された鯨の胎児70数体が埋められ、国の史跡に指定されている。鯨墓の表には「南無阿弥陀仏」に続いて「業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証佛果(業尽きし有情、放つといえども生せず、故に人天に宿し、同じく仏果を証せしめん)」とある。これは「諏訪の勘文」と呼ばれるもので、狩猟神として知られる諏訪神社において、諸動物の成仏のために唱えられる勘文であり、同時に殺生を伴う生業者に精神的な救いをもたらすものでもあった。ここから南へ300mの向岸寺には、墓と同じく諏訪の勘文を記した鯨位牌及び鯨鯢(げいげい)過去帳がある。過去帳は、享保4年(1719)から天保8年(1837)の間に捕獲した母子鯨に戒名をつけ、鯨の種類・捕獲場所・鯨組の名前を年月日順に記している。鯨墓・鯨位牌・過去帳と三位一体で、現在でも向岸寺ほか仙崎の数ヶ寺で鯨回向が行われている。