半坪ビオトープの日記

五智国分寺


上越市直江津駅の西側には、五智国分寺、居多神社、本願寺国府別院など、親鸞にゆかりのある史跡が集まっている。五智国分寺は、正式には安国山華厳院国分寺と号する天台宗の寺院である。

境内に入るとすぐ左側に、如意輪観音が祀られている。

参道をまっすぐ進むと、朱色の山門がどっしりと構えている。現在の山門は、天保6年(1835)能生谷小見村の七郎左衛門が中心となって再建したと伝えられている。両脇には、高さ2.7mの寄木造で作られた仁王像が安置されている。

山門をくぐって進むと左側に、大きな丸い石の松尾芭蕉の句碑がある。
薬欄にいづれの花をくさ枕 芭蕉
元禄2年(1689)芭蕉が高田の医師細川春庵を訪れた時の句で、句碑は明和7年(1770)に建てられたものである。

参道右手では、三重塔が修理中であった。現在の三重塔は、安政3年(1856)より20年かけて、宮大工・曽武川常右衛門と江崎の長三郎が建て直したが未完成のまま中断されている。修理中の覆いで見えないのが残念だが、初層蟇股には高田の名工・石倉(後藤)正義銘の十二支の精巧な彫刻がはめ込まれているという。高さ25.85mで、県の指定文化財である。

五智国分寺は、聖武天皇天平13年(741)に各国に国分寺国分尼寺建立を命じた詔により建立された、越後国分寺の寺籍を継ぐとされるが、創建当時の所在は不明である。現在の五智国分寺は、永禄5年(1562)に上杉謙信が再興したと伝えられている。その後幾度となく災興を繰り返し、江戸時代には元禄2年、寛政6年と火災に遭い、現在の本堂は昭和63年焼失後の平成9年に再建されたものである。
本尊は大日如来を中心とする五智如来(大日・釈迦・宝生・薬師・阿弥陀の5体)である。本堂と同じに昭和63年に焼失したため、平成15年に新しく製作され安置されている。半丈六(身丈四尺五寸)の大きさで堂々としているが、撮影禁止である。

本堂の左手前には、経蔵と白山神社神輿殿(右)が建っている。
左の経蔵は、棟札により元禄6年(1693)に上棟されたことが分かり、上越市で最古の建物とされる。中には鉄眼版一切経という仏教全集が納められ、元禄5年の寄進銘が記されている。
白山神社は、五智国分寺の守護神として加賀の白山比咩神社より勧請され、国分寺境内に鎮座された。その後江戸時代に五智国分松山に移転した。「五智まつり」と称される春季例大祭では、社殿より御神体国分寺境内の神輿殿に移され、本堂を神輿が勇壮に三周する「堂回り」が行われる、神仏習合の名残を今に伝えている。

承元元年(1207)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞は越後の国に流罪となり、藤井善信と還俗させられ国府の居多ヶ浜に上陸した。その時、国分寺住職は、親鸞とは比叡山で同学の友であったので、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結んで親鸞を住まわせた。その草庵は竹林に囲まれていたので、竹之内草庵と呼ばれるようになった。国府代官監視のもと「延喜式」による流人生活を約1年間送った後、ここより南の「竹之前庵」と呼ばれる草庵に移り住み、そこで恵信尼との生活を営んだ。そして建暦元年(1211)ようやく赦免の宣旨を受けた。草庵跡に建つ現在の建物は、明治6年に近隣の僧侶によって建てられたもので、親鸞堂という。

建保2年(1214)に常陸国稲田に旅立つ際、国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し、自らの姿を写し込んだという手彫り等身大の親鸞聖人座像「御自刻御真影」が草庵内に安置されている。

草庵の向いには親鸞聖人の銅像と「親鸞聖人腰掛石」がある。