半坪ビオトープの日記

高月院、山門


松平東照宮から松平氏菩提寺である高月院にかけての2haが、歴史と自然の郷「松平郷園地」として整備されている。高月院に至る道の右側には園地の入り口があり、園地に入ると、松平八代を象徴する七対の石柱と初代親氏の銅像が設けられている。

高月院に至る道沿いには「室町塀」や「冠木門」があり、室町塀の内側には、親水緑道の「あやめ恋路」がある。これは振り返ってみたところである。

高月院は元々「寂静寺」という修験の寺だったそうで、貞治6年(1367)足助次郎重宗の子・重政(寛立上人)が松平郷主・在原信重(親氏の妻の父親)の援護を受けて建立したといわれている。

初代松平親氏が、永和3年(1377)に本尊阿弥陀仏をはじめ、本堂、方丈、山門、庫裡などを寄進してから「高月院」と改め、松平氏菩提寺になったと伝えられている。
法然上人三河二十五霊場第1番にもなっている。

慶長7年(1602)寺領100石を徳川家康より下賜され、以後幕末に至るまで、時の将軍によって将軍家先祖の菩提所として厚遇されてきた。高月院の住職は幕府によって選任され、10万石待遇で江戸参府の際には駕籠での往復が許されていた。

高月院は浄土宗で、正式には本松山高月院という。山門手前の参道左手に三十三観音菩薩が祀られている。その右には百度石が立っている。お百度参りの時には、この石を基点に本堂までを100回往復する。

山門の左手には仏足石が安置されている。仏足石は釈迦の足跡で、インドでは釈迦の代理を意味する。足裏には千輻輪相という図が描かれている。

現在の山門や本堂は、寛永18年(1641)に徳川家光によって再建されたものである。