半坪ビオトープの日記

湯河原、城願寺


湯河原駅の北側に古木が鬱蒼と茂る曹洞宗の城願寺が建っている。表参道の石段を上ると「萬年山」の扁額がかかる山門の両脇に青銅製の仁王像が守っている。

参道前方を見上げると、国の天然記念物に指定されているビャクシンの巨木が、天を覆うように聳え立っている。

萬年山城願寺の石柱の門構えの先に本堂がかろうじて見えるが、ビャクシンの大きさには目を瞠るものがある。今から850年ほど前に土肥実平が手植えしたと伝えられ、治承4年(1180)に鎌倉へ向かって出陣した源頼朝・実平たちを見送った古木である。樹高20m、目通り周囲6m、樹齢約900年で、鎌倉建長寺のビャクシンを凌ぐ名木である。

本堂に向かって立つ「なぎの木」は、葉の葉脈が葉柄から直線平行となって先端に達する珍しい木で、最近は「縁結びの木」と呼ばれている。

平安時代末期には伊豆山の般若院系の真言宗の寺であったが、鎌倉時代土肥実平・遠平親子が再興して成願寺と改称し、土肥家の菩提寺とした。当時は相模国五山派の官寺と同列に列せられ名刹禅院として知られた。その後衰退していたが、南北朝時代に土肥氏末裔の土肥兵衛入道が禅僧雲林清深を招聘して再興し、密教寺院だったものを臨済宗に改め、清拙正澄を勧請開山(名目上の開山)とした。やがて土肥氏が失脚すると再び衰退するが、大永元年(1521)当地が小田原北条氏の領地となった時に大州梵守が再興、曹洞宗に改宗し、寺号も城願寺と改称した。

本堂は明治初めに火災にあって再建され、昭和30年代に茅葺から瓦葺きになった。堂内には本尊の聖観音像が祀られている。どういうわけか扁額には護國殿と書かれている。

ビャクシンの大木の右手には、七騎堂が建っている。

七騎堂とは謡曲「七騎落」を表現したもので、源頼朝が旗揚げまもなく石橋山で敗退し、湯河原や箱根山中を逃げ回り、真鶴から房総半島に船で渡るときに8の数字を忌み嫌う頼朝が一人船から下ろすことを実平に命じ、実平は嫡子の遠平を船から下ろし、房総上陸を果たし鎌倉に幕府を開くことに貢献した。その七騎落の故事に基づき、地元の土肥会が数十年前に建てたものだという。

ビャクシンの大木の左手には鐘楼が建っていて、その右手に「頼朝腰掛の石」と伝わる石があり、治承4年の出陣の様子を彷彿とさせる。

腰掛石の右手に文殊堂が建っている。堂内には文殊菩薩と菅原道眞が祀られている。

本堂左手の墓地の奥に、土肥一族の墓所がある。平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将・土肥実平相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡土肥郷(現、真鶴及び湯河原)を本拠とし、中村党と称される武士団を形成し、頼朝を救った頼朝七騎の一人でもある。数々の合戦に出陣し頼朝の信任篤い将となった。平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職を、嫡男遠平には安芸国内の地頭職が与えられた。

墓所には66基の墓石があり、嘉元2年(1304)7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1365)6月の銘のある宝篋印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔など各種の墓型が揃っている。このように一墓所に各種の墓型が揃っているのは、関東地方では珍しく貴重である。