山門を潜ってすぐ右手に枝垂れ桜が植えられている。樹高8m、胸回り1.7m、根回り4mで、元信君(家康)御手植えという。
高月院本堂は名月でも名高く、中秋の名月を眺めながら月見の会が催される。
高月院の収蔵展示室には、市指定文化財の高月院文書、室町時代初期の弁財天女画像、三尊来迎仏画像、伝家康八才書、野外用の携帯茶道具「野風炉」などが収められている。
本堂左手前には、鐘楼堂が建っている。高月院の1日は、6時15分の梵鐘と6時30分からの朝勤行により始まる。
鐘楼堂のさらに左奥には、弁財天が祀られている。
松平東照宮と高月院境内、松平城址、大給城址の四ヶ所は、国指定史跡「松平家遺跡」になっている。本堂の左手奥に進んでいくと、松平家墓所がある。
石段を一段上がった右側には、代々の住職の墓が並んでいる。
一番高い石垣の上に松平家の墓所がある。葵の紋が刻まれた石塀及び石扉の中に、初代親氏、二代泰親、四代親忠夫人の墓がある。この墓所は文政年間(1818~30)に11代将軍家斉が、明治23年(1890)には大和郡山藩主であった柳沢保申が修築している。
初代親氏の墓塔を中心に、宝篋印塔三基が祀られている。三基とも室町時代中期から後期のものとされる。四代親忠夫人の墓があるのは、知恩院の住持にもなった親忠の第四子・超誉存牛上人が高月院第七代住職であるため、母を祖先の墓域に葬ったと考えられている。
以上が松平郷訪問記であるが、初代親氏と二代泰親が松平家の祖先であったかどうかについて、かなり疑問視する説があることも付け加えておきたい。