高千穂町中心部から東北の山間、岩戸川を挟んで天岩戸神社の東本宮、西本宮がある。岩戸川の西側にある西本宮の駐車場は満杯で、東本宮のさらに東の臨時駐車場に案内された。そこから東本宮前を通り、岩戸橋を渡る時、右手に岩戸川の上流側が見下ろせる。谷は深く、鬱蒼と茂る木々に覆われて清流もわずかしか見えない。
西本宮の入り口には大きな神明鳥居が建っている。歴史を感じさせる木製だが、わずかに右側が太くなって反りが見られる。
境内に入るとすぐ右手に芭蕉の句碑が立っている。芭蕉本人がここを訪れたわけではないが、安政2年(1855)、門人たちが句会の折、この地にふさわしそうな句を選んで建立したという。揮毫は延岡に寄留した江戸の俳人・得々庵魚竹である。「炭俵」の冒頭を飾った名句が選ばれた。
「梅が香に のっと日乃出る 山路哉」はせを
その先に石造の二の鳥居が立っている。
二の鳥居の先右手に神門があり、その手前に苔むした石灯籠が立っている。
神門をくぐると正面に天岩戸神社西本宮の社殿が建っている。天岩戸神社の名は、西本宮が拝する天岩戸に由来する。昭和45年に合併し天岩戸神社東本宮西本宮と称するようになったが、それ以前は西本宮が「天磐戸神社」、東本宮は「氏神社」でありかつては「天磐戸大神宮」とも呼ばれていた。元来は独立した別の社であり、ともに皇祖神天照大神を祀るとはいえ、創祀以来、皇室や朝廷からではなく在地住民からの信仰を主としている。西本宮の創祀は不詳だが、岩窟(天岩戸)を神体とするのは古くからの信仰形態を示すものとされる。社伝によれば、瓊瓊杵命が天岩戸の故事を偲び、その古跡に鎮祭したのが起源であり、弘仁3年(812)に大神惟基により再興されたが、戦国時代に度々消失したという。棟札によると宝永4年(1707)に荒廃した社地を整地し、文政4年(1821)には延岡藩主の援助で社殿を再建したという。歴史的には神社というより天岩戸を拝むための遥拝所の性格が強かったことが明らかとされている。神体が裏手の天岩戸であるため本殿を持たず、拝殿のみの特別な作りで、昭和61年に造営されている。
祭神として大日孁尊(おおひるめのみこと、天照大神の別名)を祀り、岩戸川対岸の断崖中腹にある天岩戸と呼ばれる岩窟を神体とし、日本神話に登場する天岩屋であると伝える。
二の鳥居のすぐ先右手に祓所がある。天岩戸を拝む遥拝所は社殿の後ろにあるが、遥拝するには社務所に申し出て、社殿に参拝し、祓所で祓いを受けてから、社殿傍から裏手の遥拝所に向かう。ただし、遥拝所からでも明確に目視はできず、崩れた跡の一部が拝めるだけという。
拝殿の右脇には神饌所がある。
拝殿の右手前にオガタマノキ(招霊木)の大木があり、御神木とされる。実の形が神楽鈴の原型ともいわれ、高千穂町の木でもある。
拝殿の左脇には切妻造妻入の御旅所がある。御旅所には配祀神である天鈿女命・手力男命・大年神・素戔嗚尊・日子穂穂手見命・豊玉毘売命、菅原道眞の7柱が祀られている。
拝殿の左横には神楽殿が建っている。明治30年に造営が行われた社殿の一部が、神楽殿として移築保存されている。
春季大祭や秋季大祭では、この神楽殿で神楽奉納が催される。殿内には荒立神社にもあった、彫り物(えりもの)と呼ばれる切り絵が張り巡らされている。