半坪ビオトープの日記

苗村神社、東本殿


苗村神社西本殿の大きな楼門の右手には、祭りで唱えられる掛け声の大きな石碑と由来碑が立っている。祭の掛け声「雲生井戸掛 大穂生 惣禮詣與下露」(うんしょう いどかけ おおぼしょう それもよかろう)を書き表した石碑は、平成25年に楼門横に建立されている。

楼門を入ってすぐ右手には、読み取れない石碑と由緒書きの石碑があり、その後ろに神輿庫が建っている。桁行4間、梁間2間、屋根は切妻造桧皮葺。正面及び北側面に出入り口があるほか、柱間は全て板壁の簡素な造りだが、重文に指定されている。社蔵文書によると、天文5年(1536)に苗村神社が正一位の神位を受けるに際し、勅使の装束を替えるための仮殿として建て、その後神輿庫に使用したとある。したがって内部にはお供の控え室の間仕切りが設けられ、外観上も軽快で住宅風の建物である。

神輿庫の手前に子守の像が安置されている。西本殿の祭神として祀られ、子守大明神の別名を持つ国狭槌尊の像である。

楼門を入って左に龍神池があり、池の端に小さな龍神社が祀られている。龍神池の向こうに見える建物は、参集所である。

境内の一番南にある不動堂には、神仏混合の名残で木造の不動明王立像が安置されている。鎌倉時代の作で、国の重文に指定されている。

西本殿の向かい、県道の東側に苗村神社の東本殿がある。「長寸(なむら)神社」との社名石の奥にも大きな石碑があるが、残念ながら読み取れない。

鳥居に掲げられている扁額には、「長寸神社」と書かれている。参道には灯籠がたくさん並べられ、突き当たりを右に曲がると東本殿の社殿が見えてくる。参道途中の右側に、大神宮がある。

東本殿には拝殿がなく、いきなり本殿が建っている。『日本書紀』には、「近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、天日槍命(あめのひぼこ)の従人である」との記述がある。苗村神社の西には鏡山が存在し、その周辺からは古窯の跡が数多く発見され、須恵という地名も残っている。よって苗村神社を興した有力者は、須恵器の技術に長けた渡来人の可能性が高い。

東本殿に祀られる苗村の産土神である那牟羅彦神および那牟羅姫神は、この付近一帯に工芸技術をもたらした神との伝承があり、天日槍命の従人たちによる須恵器製造技術伝来の伝説とも一致している。この東本殿も、一間社流造桧皮葺だが、西本殿より幾分新しく、蟇股の様式から室町時代のものとされ、国の重文に指定されている。また社殿前の石灯籠には永享4年(1432)との銘があることから、その時期の建造であると考えられている。正徳4年(1714)には大半の部材を取り替える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和33年の解体修理で、資料に基づき復元整備された。正面に四枚の吹寄せ格子戸をたてる。少し入ったところに幣軸を廻して板扉を建て、東側面にも同様の扉口を設け、母屋の実肘木を通し材とし、妻飾のさす組頂に花肘木を組み入れるなど、西本殿脇の八幡社本殿と共通点が多い。正面柱間2.86m、奥行は向拝も含めて5.22m。一間社の本殿としては背の高い大型の本殿であり、苗村神社の中でこの建物のみ丹塗りが施され、向拝の蟇股、内外陣境の扉下の格狭間には華やかな彩色が施されている。

東本殿の右側には天神社が建ち、左側には佐々貴社が建っている。苗村と同じ蒲生郡に勢力を持っていた近江源氏の佐々木氏一族を祀っていると思われる。