半坪ビオトープの日記

天岩戸神社、天安河原


天岩戸は日本神話に登場する洞窟で、天戸、天岩屋、天岩屋戸ともいい、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台である。天上界の出来事であるが、ここが天岩戸という場所はいくつも存在する。しかし、高千穂の天岩戸が最も有名である。古事記の記述の概略は以下の通り。誓約で身の潔白を証明した建速須佐男命は高天原に居座り、田の畦を壊したり御殿に糞を撒き散らすなどの乱暴を働いたが、天照大神は須佐男をかばっていた。天照大神が機屋で衣を織っていた時、須佐男命が機屋の屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さり死んでしまった。天照大神は見畏みて天岩戸に引き篭った。高天原葦原中国も闇となり、様々な禍事が発生した。そこで八百万の神々が天安河原に集まり対応を相談した。思金神の案により様々な儀式を行い、常世の長鳴鶏を集めて鳴かせた。枝に八咫(やたの)鏡と八尺瓊(やさかにの)勾玉と布帛を掛け、太玉命が御幣として奉げ持った。天児屋命祝詞を唱え、天手力男神が岩戸の脇に隠れて立った。

天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部まで押し下げて踊った。すると高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。それを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。天宇受賣命が「貴方様より貴い神が現れたので喜んでいるのです」というと、天児屋命太玉命天照大神に鏡を差し出した。鏡に映る姿をもっとよく見ようと岩戸をさらに開けた途端、隠れていた天手力男神天照大神の手を取って岩戸の外へ引きずり出した。こうして高天原葦原中国も明るくなったという。その天岩戸を右奥に感じながら、天安河原に向かって岩戸川を遡っていく。

太鼓橋を渡りなおも進むと、ようやく天安河原の洞窟にたどり着く。天照大神が岩戸に隠れた際、八百万の神が集まり相談したと伝えられる所である。奥行25m、間口30mの大洞窟は、別名「仰慕ヶ窟(ぎょうぼがいわや)」とも呼ばれている。

以前は社のみがあり信仰の対象になっていたが、いつの間にか祈願を行う人たちの手により石が積まれるようになった。

天岩戸神社に詣でたあと、10分ほどかけてもこの天安河原まで、約500mを歩いてお参りする人がたくさんいる。

天安河原宮では、主祭神として思兼神を祀り、さらに八百万の神も祀っている。

天安河原の前の岩戸川の川べりにも小石が無数に積み上げられている。「願いを込めて小石を積むと願いが叶う」と信じる人が多いことがわかる。

天安河原から西本宮まで戻り、もう一度社殿を見て回る。ここが天岩戸を拝む遥拝所に向かう道だろうと思う。

一の鳥居の手前に、昭和32年に設立された徴古館があり、展示資料は収集考古資料970点のほか、岩戸地域内から表面採取された土器、石器などの寄託品と美術品、菊花石や孔雀石など合わせて2000点が展示されている。土器類は209点ある。

勾玉、管玉、丸玉などの装身具は123点展示されている。

石鏃は516点と最も多く、石斧120点、そのほか石匙、石槍、礫器などの石器類が多いのが特徴である。

西本宮から岩戸川を渡り戻ってくると、北の山側に天岩戸神社の東本宮入口が見えてきた。林の中に、神話の通り天宇受賣命が桶を伏せて踏み鳴らしている姿がある。

この鳥居をくぐって石段の参道をずっと登っていくと東本宮の社殿がある。東本宮も創祀は不詳で、昌泰年間(898~901)の古記録に、思兼神が天岩戸より出御した天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)に、東本宮の地に造営した社殿への鎮座を願ったのに創まるという。参道に現存する石灯籠には天保11年(1840)と刻まれている。東本宮本殿は、桁行3間梁間2間の神明造で、昭和31年に造営されている。社殿の裏には杉の神木の根元から湧き出す泉(御神水)があり、遊歩道の先には七本杉もあるが、天岩戸の洞窟を眺めることはできない。急な石段を仰ぎ、先を急いで参観は諦めた。