半坪ビオトープの日記

巨田神社


宮崎市の最北部、佐土原から西都市に向かう途中、静かな農村の外れの森に囲まれた一角にポツンと巨田(こた)神社が鎮座している。

巨田神社の創祀は不詳だが、天長8年(831)に飛箟原に白羽の矢1対が飛来したため、そこに祠を建てたのが創祀と伝える。初め天太玉命を祀っていたが、当地周辺に宇佐八幡宮の荘園、田島荘が設けられたのに伴い、寛治7年(1093)にその分霊を勧請し、爾来、巨田八幡宮と称したというが、古田宮と記す記録も残っている。中世には伊東氏の支配下にあり、この頃に巨田八幡宮の供僧と蓮光寺院主を兼任した例が見られることから、蓮光寺は巨田八幡宮別当寺だったと考えられている。天正6年(1578)に日向国が島津氏の領土となってからは、島津家久法華経一部を奉納するなど島津氏の信仰を集めた。

拝殿左手前には、元禄13年(1700)佐土原5代藩主・島津惟久が祈願成就のため奉納した石灯籠が現存している。

祭神として、当初は天太玉命を祀っていたが、現在は誉田別命応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)、住吉三神(上筒男神、中筒男神、底筒男神)を祀る。しかし、拝殿内には何も安置されておらず、後ろに本殿を垣間見ることができるだけである。

巨田神社の本殿は、文安5年(1448)に建立され、その際の棟札には大檀那として領主・佐土原祐賀の名が記されている。永正5年(1508)にも都於郡城主・伊東尹祐により再興されている。現本殿は天文16年(1547)の建立で、その後文禄5年(1596)に島津豊久、慶長18年(1613)に佐土原藩主の同忠興によって修造が行われている。現本殿は三間社流造栃葺(当初は板葺)、木部には朱が塗られており、南九州には数少ない室町時代中期の建造物で地方的崩れも見られず、中世から江戸期までの棟札22枚とともに国の重文に指定されている。昭和56・57年に本殿・摂社の修復事業が行われ、軒間の緑や蟇股の彩色が美しく再現された。本殿屋根をよく見ると、鬼瓦に相当する赤い鬼の面が珍しく注意を引く。
貞享3年(1686)に摂社今宮社(左)、享保12年(1727)に摂社若宮社(右)が本殿の左右に建立されたが、ともに一間社流見世棚造鉄板葺で、宮崎県の有形文化財に指定されている。

境内右手外れに壊れかけた社が一つ建っている。境内社の大将軍神社という。同じ町内西上那珂小永野には大将軍神社があり、また近くにある小さな堤神社や古舘神社も古くから大将軍様と呼ばれて鎮守として崇敬されているというから、同じような鎮守様と思われる。

社殿の裏手にも小さな社が取り残されていた。詳細は不明であるが、昔、天長8年(831)に祠を建てたというからその名残かもしれない。

巨田神社の向かいの笹原を背にして、鴨供養塔が建っていた。

近接する巨田大池とそれを囲む丘陵地では、400年以前から佐土原藩士が鍛錬のために鴨の越網猟(こえあみりょう)を行っていた。かつては朝夕の巣の出入りを狙って、池を取り巻く樹木を凹型に伐採して鴨の通り道とする30の猟場が作られていたが、この伝統猟は昭和初期に一時休止した。昭和34年に再開され、夕方に飛び立つ鴨を待ち伏せて鴨網で捕る。現在もこの古式猟法が行われている地域は種子島宝満池や石川県の片野鴨池など数少ない。この巨田池の鴨網猟は県の無形民俗文化財に指定されている。

巨田神社の向かいにある佐土原町観光民芸館内の壁に、巨田神楽の大きな鬼の面が掲げられていた。巨田神楽は、巨田神社に古くから伝わる神楽で、神楽面や大太鼓などの紀年銘から慶長年間(1600年頃)には舞われていたとされ、今でも秋の例祭で三十三番が舞われる。その中の綱荒神の舞で登場して両断される藁製の大蛇は、水田に施せば稲がよく成長し、家畜に与えると無病息災になるとされる。