半坪ビオトープの日記

尾山神社


金沢城の西に、藩主前田利家主祭神として祀る尾山神社がある。明治6年(1873)に創建され、神門はその正門として明治8年に建築され、国の重文に指定されている。

神門の設計は、大工津田吉之助。和・漢・洋折衷様式の3層アーチ型楼門で、初層の戸室石積みの3連アーチには洋風の技巧を取り入れ、石積みの下地には煉瓦が積まれ、白漆喰の壁で包まれており、これが県内で最も早い煉瓦の使用例と考えられている。2・3層目は壁を銅板で覆い高欄を廻らせている。

内部のケヤキの円柱や門扉上の欄干には、和様建築の洗練された技がこらされ、虹梁上や扉に施された精巧な彫刻が目を引く。

最上層には西日に輝く5色のステンドグラス、さらには当時の最新技術を導入した避雷針の奇抜な姿に、当初は非難の声もおこったが、今では金沢の文明開化の象徴的建造物としてランドマークとなっている。

神門をくぐると正面に尾山神社の拝殿が建っている。慶長4年(1599)前田利家が没すると前田利長はその霊を祀ろうとしたが、憚るところがあり金沢城の東に八幡神を勧請して卯辰八幡社を建て、そこに合祀した。明治になり社殿が荒廃しているのを遺憾とした前田直信ら旧加賀藩重臣が、金沢城出丸金谷御殿跡にあらたに拝殿と本殿を設けて、利家の神霊を遷座、創建した。平成10年には利家の夫人まつも合祀された。

社殿のすぐ右に、神苑にひかれた導水管が3個置かれていた。3代藩主利常の頃(1632)犀川上流から金沢城へ導水した辰巳用水が完成した。その一部を分岐して金谷御殿(現在の尾山神社)にもサイフォンの原理を応用し、巧妙な仕組みで兼六園の水を引水し、響音瀑という滝を造った。当初水路は木管で造られていたが、天保15年(1844)に庄川上流の金屋石の導水管に取り替えられた。

拝殿内右手には、金沢を代表する百万石祭りで使用される御鳳輦(ほうれん)が安置されている。6月初旬の百万石行列では、祭神の分霊を遷した御鳳輦と、武者行列や加賀鳶など、城下町金沢を彩る時代絵巻が繰り広げられる。

拝殿の後ろに離れて建つ本殿は、煉瓦塀に囲まれてよく見えない。神社に煉瓦塀とは珍しいが、その煉瓦塀に前田家の剣梅鉢の家紋透しがある。右手前の灯籠にも梅鉢紋がある。拝殿は千鳥破風・唐破風の付く入母屋造であるが、こちらの本殿は3間社流造となっている。

煉瓦塀の右手の境内には、金谷神社が建っている。2代藩主から17代までの藩主・当主とその正室・夫人が祀られている。

明治12年には尾山神社相殿に前田利長・利常が祀られたが、金谷神社は同じ年に摂社として創建されている。

尾山神社社殿および金谷神社の右手には、築山池泉回遊式の神苑がある。この庭園は神社が建てられる以前の金沢城出丸金谷御殿に附属するもので、琴橋など古代舞楽の楽器を模しているという。ジグザグの八ッ橋の右手には飛び石の沢渡り、向かいには藤棚がある。

八ッ橋の奥には、アーチ型石橋の図月橋が架かっている。図月橋が造られたのは寛永19年(1642)前後だという。また、神門の三連アーチのデザインは、この橋の意匠に基づいて設計されたといわれている。