半坪ビオトープの日記

内宮、神苑


五十鈴川のほとりにある皇大神宮は、伊勢神宮の二つの正宮のうちの一つで、一般には内宮と呼ばれる。伊勢信仰の中心となる神社で、日本全国の神社で授与される神宮大麻はこの皇大神宮の神札である。社地の面積は外宮の10倍ほどあり、外宮と異なり右側通行である。内宮には宇治橋大鳥居をくぐり、宇治橋を渡って神苑に入る。鳥居の高さは橋の両側とも7.44mである。外側(西)の鳥居は、外宮正殿の棟持柱の古材から、内側(東)は内宮正殿の棟持柱の古材から作られ、式年遷宮に合わせて20年ごとに建て替えられる。鳥居の形は反りのある明神鳥居ではなく、反りがなく垂直の柱に水平に笠木が乗り、笠木の断面が五角形で、貫が柱から出ないという、典型的な神明鳥居である。
宮司庁によると、式年遷宮が行われた2013年の内宮の参拝者は900万に迫り、史上最高を記録した。外宮の時にも記したが、参拝者の数は1950年代まで外宮の方が多かった。内宮の位置付けが外宮より劇的に高まるのは明治維新からであり、伊勢神宮が7世紀に創立されてから19世紀に至るまで、在位中の天皇は一度も伊勢を参拝したことがなく、明治天皇が史上初めて明治2年(1869)に伊勢を参拝したことにより伊勢神宮の位置付けが質的に変化した。歴代天皇が祖先神を祀る伊勢に一度も参拝しなかったのは、京都御所の内侍所に八咫の鏡のレプリカがあったから、あるいは未婚の皇女である斎王が戦国時代まで伊勢で天照大神に仕えていたなどの理由で、伊勢まで参拝する必要がなかったともいわれる。伊勢神宮の近代化と近代天皇制の関係についての書物は以外と少なく、ここでは最近出版された『神都物語(伊勢神宮近現代史)』(吉川弘文館刊、ジョン・ブリーン著)及び『神社に秘められた日本史の謎』(洋泉社刊、新谷尚紀監修)を随時参考にする。

参道口にある宇治橋は別名、御裳濯(みもすそ)橋という木造和橋で、日本百名橋の一つとされる。橋脚杭のみがケヤキで、ほかはヒノキで作られている。明治以降は式年遷宮に合わせて架け替えられていたが、敗戦直後に式年遷宮が4年遅れたときに、宇治橋だけは架け替えられ、それ以降、式年遷宮の4年前に架け替えられるようになっている。
明治天皇の史上初めての伊勢参拝(1869)は、神宮が祀る天照大神が歴代天皇の祖先神で、天皇が大神の子孫であり、天皇が神話を体現する神聖な存在だとし、王政復古を権威づけるものであった。ここから神宮は、江戸時代のように庶民が奇跡や癒しを求める巡礼地ではなくなる。国は神祇官、神祇省、教部省内務省と神宮を管理下に置き、靖国神社とともに終戦まで一貫して経済的にも優遇した。神宮の改革を主導したのは、内宮神職の浦田長民だった。権禰宜だった浦田は維新直後に度会府御用掛に採用され、府知事を通して政府の岩倉具視三条実美、亀井茲監などに意見書を送り改革を実現していく。まず仏教を完全に排除しようと、天皇の参拝前の半年で、神仏分離の徹底化として宇治と山田を含む渡会府にあった258の寺院のうち183が廃寺とされた。さらに御師の廃止、大麻や暦の頒布禁止、神宮の世襲職を全て廃止し、新たに神宮司庁を内宮に設置して外宮より上位とした。御師大麻頒布の禁止は参拝者の激減を生じ、代わりに浦田長民が発案した神宮教院が大麻頒布を担った。神宮教院の経典、浦田長民著『大道本義』は天地主宰神として天照大神への信奉を説く伊勢神道だが、当時流行っていた出雲大社の祭神大国主命を中枢とする神道論と激突する。政府が介入して大国主を不要な神とし伊勢神宮の勝利となったが、以後、神宮も含め神道論争が禁止されて、全国の神社が非宗教と位置付けられる発端となった。

下流側は浅瀬になっている。宇治橋は内宮創建当初には架けられておらず、五十鈴川の浅瀬に石を並べて渡っていたと考えられている。中世には簡素な橋が架けられたようだが、度々流されている。徳川時代になり御師の活動により式年遷宮が途絶えることがなくなると、宇治橋の造替も滞りなく行われるようになった。明治初期までは宇治橋の内にも民家があったが、神苑会による神苑整備の一環として退去させられた。御師の禁止などにより参拝者が激減した宇治山田の経済的復興および神都化を目指したのは、浦田長民らが作った神苑会という民間組織だった。神苑会は、内宮と外宮の間にある倉田山の土地を購入し、日本初の歴史博物館となる徴古館や日本初の私立自然科学博物館となる農業館などを建て、神宮周辺の土地を購入して、現在我々が見る清々しい神苑を整備した。

宇治橋の上流側には、川の増水での流木などが橋脚に衝突しないように数本の木除杭が立てられている。