半坪ビオトープの日記

外宮、別宮


細長い御池に掛かる平たい「亀石」という石橋を渡ると、多賀宮をはじめとする別宮がある。別宮(べつぐう)とは、正宮の「わけみや」という意味で、正宮の次に位置付けられている。外宮の4つの別宮のうち神域内に3つある。はじめに左手(東)に風宮が建っている。社殿は外宮の正宮に準じ外削ぎの千木と、5本で奇数の鰹木を持つ萱葺の神明造で南面している。

風宮の祭神は、風を司る級長津彦(しなつひこ)命と級長戸辺命の2神で、元来は風社と称していた。『止由気宮儀式帳』および『延喜式神名帳』にも社名がなく、長徳3年(997)の「長徳検録(度会家行著『類纂神祇本源』所引)」に初見だが、弘安4年(1281)の元寇に際して蒙古軍を全滅させた神威の発顕により、正応元年(1293)に一躍別宮に加列された。級長津彦命級長戸辺命の2神は本来農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となり、文久3年(1863)に朝廷は攘夷の祈願を行った。

風宮の向かい、御池の淵に広がる深い木立の中に土宮が建っている。古くから外宮の地である山田の原の鎮守の神として祀られていた、大土乃御祖神が祭神である。『止由気宮儀式帳』および『延喜式神名帳』にも社名がなく、長徳3年(997)の「長徳検録」に外宮所管の田社32前の1座として土地御祖神社の名が出ている。田社とは末社にあたる。

それが大治3年(1128)に宮川治水、堤防の守護神として、一挙に別宮に加列された。当時、宮川の氾濫が相次ぎ、外宮を守る治水・堤防に重きを置かれたためとされる。しかし、外宮の創設より以前にあった地元の氏神を祀る神社として、その位置付けが認められたためではないかとも思う。境内別宮は基本的に鳥居を持たないが、土宮だけは鳥居を持つ。社殿は外宮に準じ外削ぎの千木と、5本で奇数の鰹木を持つ萱葺の神明造で東面している。

風宮と土宮の間の参道の百段近い石階を南に上がると、檜尾山に南面して多賀宮が建っている。『止由気宮儀式帳』および『延喜式神名帳』にも記載された、外宮の別宮の中で最も格式が高い宮であり、多賀宮・土宮・風宮の順に参拝するのが古来の習わしとされる。古くは高宮と称され、おそらく小高い丘の上にあったと考えられている。社殿は外宮に準じ外削ぎの千木と、5本で奇数の鰹木を持つ萱葺の神明造で南面している。

祭神として、豊受大御神荒御魂を祀る。すなわち豊受大神宮=外宮が創立した時に、多賀宮も同時に奉斎されたとされる。天照大御神の荒御魂を祀る内宮の荒祭宮と同様、式年遷宮でもこの2宮だけは正宮に引き続き同年中に斎行される。

多賀宮への石段の右手にある細い道を西に向かうと、外宮の所管社である小さな下御井神社がある。創建は不詳。『止由気宮儀式帳』に「御井」や「御井神」の記載があるので上御井を指し、「御井二所」の記載は上御井と下御井を指すとされる。近世まであった多賀宮の忌火屋殿が明治時代に廃止されたが、それまで使われていた井戸が残され下御井神社となったという。

大津神社の奥にある上御井神社と構造は似ていて、板垣の内側にある建物は社殿ではなく、井桁の上に造られた「覆屋」である。上御井神社よりかなり小さく、神職は覆屋の中に入れない。祭神は下御井鎮守神といい、外宮の御料水の守護神あるいは御料水を汲み上げる井戸の守護神、水神とされる。