半坪ビオトープの日記

外宮、正宮


大庭を過ぎると右手に広大な石原が注連で囲まれている。ここは平成25年まで以前の正宮があった場所で、御敷地で古殿地とも称する。奥の方に小さな真新しい覆屋があるが、そこが御正殿の中心で、心御柱(しんのみはしら)が建てられる場所という。心御柱とは、御正殿の床下に建てられる特別な柱で、忌柱、天ノ御柱とも呼ばれる。心御柱を建てる儀式「心御柱奉建」は深夜に行われる秘儀とされる。

古殿地の左には、新しい正宮(しょうぐう)が垣間見える。一番右手奥のきらびやかな鰹木が見えるのが、正宮の御正殿である。正面に回ると何も見えないので、屋根の様子を調べると、屋根の両妻にある破風板が屋根を貫いて千木となり、萱葺屋根の棟の上には鰹木が置かれている。外宮の祭神が豊受大御神という女性神なので、一般的には屋根の上の丸い鰹木は偶数となるべきところが奇数の9本で、千木は内削ぎとなるべきところが外削ぎ(垂直切)となっている。その理由には諸説あるが、外宮の祭神が本来男神的性格を帯びていたためとする説もある。
正殿のすぐ手前の小さな建物は、正殿とともに瑞牆内にある東宝殿である。西宝殿とともに、皇室からの供物や神宝類などを納めている。正殿の後ろの瑞牆の外側、板垣の内の東北隅には、外宮ならではの御饌殿(みけでん)があり、毎日朝夕の二回、伊勢神宮の神々への神饌(食事)が供えられる。西北隅には外幣殿がある。

古殿地の先にある正宮は、高い板垣で覆われている。正宮入り口には、鳥居型の板垣南御門が建っている。

板垣南御門の内側では、撮影禁止となっている。拝観は板垣の中の外玉垣までであり、その内側にはさらに内玉垣があり、さらに瑞牆で囲まれているため、外玉垣南御門の左右から覗こうとしても正殿は全く見えない。

外宮すなわち豊受大神宮主祭神は、産業の大神である豊受大御神であるが、相殿神として御伴神(みとものかみ)三座を祀る。東に一座、西に二座を祀る。外宮の鎮座の由来について、『古事記』・『日本書紀』には記載がなく、延暦23年(804)に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の夢に天照大御神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託したという。この神託を受け、雄略天皇22年、内宮に近い伊勢国度会郡沼木郷山田の原に豊受大御神を迎えて祀った。
玉垣南御門の前で参拝するとしても、絹の帳が下がっていて何も見えない。御神楽や御饌など特別な祈祷を願い出る場合などを除き、一般客は玉垣の中には入れないし、正殿にも近づけない。

そこでせんぐう館に再現されていた原寸大の正殿模型を思い出しながらパンフを見てみる。建物の様子をまとめると、建築様式は唯一神明造と呼ばれ、神明造の簡素直線式・切妻平入造に加えて、高床式で棟木の両端を支えている棟持柱があり、丸柱で掘立式であり、檜で造った素木造であるなどの特徴がある。
外宮では代々度会(わたらい)氏が神職として奉職したが、中世には度会家行が、豊受大神天之御中主神・国常立神と同神であり、外宮は内宮よりも立場が上であるとする伊勢神道度会神道)を唱えた。これを機に両宮の反目が表面化し、文明18年(1486)内宮門前の宇治の御師達が外宮門前の山田の町を焼き払い、3年後には外宮側の御師達が宇治の町を焼き払うなど、両宮の正殿も血で穢されるなどの争乱となった。こうした混乱で、永享6年(1434)から永禄6年(1563)まで、129年間も式年遷宮が中止された。その伊勢神宮を建て直すため、神宮で祭祀を執り行っていた御師は外宮に祀られている豊受大御神を広めるため農民に伊勢神宮へ参詣してもらうように「お祓い大麻」や「伊勢暦」を配るなど全国各地へ布教するようになった。江戸時代には五街道などの交通網が発達し、参詣が容易となった。当時、庶民の移動は厳しく制限されていたが、伊勢神宮参詣の名目の旅はほぼ無条件で通行手形を発行してもらえた。伊勢に着くと参拝者は御師の宿屋に泊まり、御師は神宮参拝の取次をして莫大な収入を得た。外宮先祭および地理的条件の良さから、江戸末期ではその御師の数は、外宮の方が内宮の方より2倍近くいた。また、参拝者の数は1950年代まで外宮の方が多かった。内宮の位置付けが外宮より劇的に高まるのは明治維新からであるが、その点については内宮の時にふれることにする。

正宮から戻り、風宮などの別宮に向かうが、参道脇に俗に三つ石と呼ばれる3個の石が囲まれている。「川原祓所」といって、祭事の時に穢れを祓う場所で、特に何かが祀られているわけではない。