半坪ビオトープの日記

本居宣長旧宅、松坂城跡


本居宣長記念館のすぐ北側の松坂城跡は松阪公園として整備され、本居宣長の旧宅「鈴屋」もある。現在、松坂城跡に櫓など建物は一切残っていないが、広大な曲輪や石垣が残っている。ここは曲輪の一つである隠居丸跡で、この門の向こうに宣長の旧宅がある。

松坂城二の丸跡の約200m南には、本居宣長の旧宅が移築されている。宣長が12歳から亡くなる72歳まで住居としていた家である。書斎の名をとって「鈴屋」と呼ばれるこの家は、宣長の祖父が養母の隠居屋敷として、元禄4年(1691)に清光寺門前に建て、享保11年(1726)に魚町へ移したものである。

宣長は父が没した翌寛保元年(1741)母弟妹らとともにこの家に移り住み、以後本居家の居宅として明治に至った。明治42年(1909)現在地に移転、若干の復元を行った。一階は上がって見学できるが、二階は保存のため上ることができず、石垣の上に設置された見学場所から眺めることになる。

二階の4畳半の書斎は、『古事記伝』の執筆も半ばを過ぎた天明2年(1782)53歳の時、物置を改造し増築した。「鈴屋(すずのや)」の名称は、床の間に36個の小鈴を赤い緒で連ねた柱掛鈴を掛けたことに因む。

床の間にかかっている軸は、「県居大人之霊位(あがたいのうしのれいい)」。宣長の師・賀茂真淵の命日にはこの軸が自書して掛けられたという。宣長の主な著作はこの部屋で書かれた。

間取りは一階に、店の間(6畳)、中の間(6畳)、奥中の間(4畳、但し2畳の床が付く)、仏間(3畳)、奥座敷(8畳)、台所、階段の間、湯殿等があり、二階に書斎がある。

宣長は、28歳からは通りに面したこの店の間で医業を開き、夜は奥座敷などで古典講釈や歌会をしたと伝えられている。

松坂城は、天正16年(1588)秀吉の家臣・蒲生氏郷が築城した平山城である。氏郷が陸奥黒川(現、会津若松市)へ移封後、服部一忠、古田重勝と城主が変わり、元和5年(1619)に徳川頼宣和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松坂・田丸・白子等)18万石を統轄する城代が置かれてきた。
この上は太鼓櫓跡である。

石垣に囲まれた道を進むとすぐ中御門跡に至る。中御門は明治14年まで現存していたが、不要とのことで表門・裏門とともに破却されたという。

曲がりながら進むと本丸跡や月見櫓跡などに至るが、先を急いで引き返すことにする。

松坂城跡は桜や藤の名所でもあり、松阪公園としても親しまれていて、国の史跡にも指定されている。