半坪ビオトープの日記

熊本城、本丸御殿


もう一度、熊本城天守閣の破風を南東から見てみよう。大天守の最上階は東西方向の入母屋破風であり、その下に南北に小さな唐破風があり、その下には東西南北に千鳥破風があり、その下の千鳥破風は東西南の3方向を向いている。千鳥破風は、宇土櫓の直線的な三角形ではなく、一般的な反りのある優美な形をしている。

本丸御殿の入り口には大銀杏が聳え、その手前は御居間跡という。この大銀杏により、熊本城は別名、銀杏城とも呼ばれる。元は加藤清正御手植えの銀杏と伝えられていたが、西南戦争のとき銀杏の木も燃えてしまい、その後に芽吹いた脇芽から130年でここまで大きくなったという。清正は銀杏の実を食料にするため城内にたくさん銀杏を植えたといわれるが、残念ながらこの木は雄の木で実はつかない。
大銀杏の裏手にある大きな本丸御殿は、南北に分かれた本丸にまたがって建つため、闇り通路と呼ばれる地下通路がある。その通路が御殿への正式な入り口ともなるという類を見ない建物である。

本丸御殿は、加藤清正によって慶長15年(1610)頃に創建され、行政の場・歴代肥後藩主の対面所として使われてきたが、明治10年(1877)の西南戦争で焼失した。往時は部屋数53室(畳総数1570畳)を数えたといわれる。その後、大広間棟、大台所棟、数奇屋棟を中心に部屋数25室(畳総数580枚)にて平成20年に復元された。本丸御殿には靴を脱いであがる。「御膳立之間」や「大御台所」などを見て、大広間に入る。60畳と最大の「鶴之間」から、「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続き、各部屋の境は襖で仕切られ、左手には幅の広い縁側が設けられている。御殿内は、フラッシュを使わなければ撮影ができる。

「鶴之間」には、狩野如川周信による「竹林七賢・高士図屏風」が置かれている。

「桐之間」には、肥後藩御用絵師・矢野雪叟の掛け軸がある。「旭日猛禽図(複製)」で、鷹の姿に迫力を感じる。

突き当たりの2番目に重要な部屋が若松之間で、付書院・格天井を備えた造りで、広さは18畳ある。その右手奥には、最も格式の高い昭君之間が見える。慶長期の特色である鉤上段を設け、室内は床の間や違棚、付書院などを持つ書院造りとなっている。

部屋全体に描かれている狩野派の障壁画は、中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語である。楊貴妃・西施・貂蝉(ちょうせん)と並ぶ、古代中国四大美人の一人に数えられている。

王昭君は、前漢元帝から匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)の閼氏(単于の妻)として贈られ、一男を儲けたが、その後、呼韓邪単于が死去したため、当時の匈奴の習慣に従い、義理の息子の復株累若鞮単于の妻になって二女を儲けた。漢族は父の妻妾を息子が娶る事を不道徳とするため、このことが王昭君の悲劇とされ、異民族との狭間で犠牲になった薄幸の美女として多くの物語の題材となった。

金箔の上に様々な植物が描かれた天井画は全部で60枚あり、飾り金具が配された漆塗りの折上格天井とともに部屋を豪華に彩っている。白馬に乗り、琵琶を弾いているのが王昭君である。

家老などの控えの間である16畳の家老之間には、いくつも杉戸絵が展示されている。紫陽花や萩などの花鳥の杉戸絵は、本丸御殿(昭君之間付近)の通路にあった杉戸絵を復元したものである。

左側の杉戸絵は、藩主御用絵師・杉谷行直が描いた「海棠に山鵲(さんじゃく)図」である。