半坪ビオトープの日記

水前寺成趣園


熊本城の南東、3kmのところにある水前寺成趣園(じょうじゅえん)は、通称、水前寺公園と呼ばれる大名庭園である。豊富な阿蘇伏流水が湧出して作った池を中心にした桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。肥後細川藩の初代藩主・細川忠利が寛永13年(1636)頃から築いた「水前寺御茶屋」が始まりで、細川綱利のときに泉水・築山などが作られた。陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉以成趣」から成趣園と名付けられた。

池に東面して、古今伝授の間がある。近世細川家の祖で忠利の祖父細川藤孝(幽斎)が、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王古今和歌集の奥儀を伝授したといわれる部屋で、杉戸の雲龍狩野永徳の筆、襖絵は海北友松の画と伝えられている。

これが池の対岸(東)から見た古今伝授の間の建物である。当初八条宮の本邸にあったが長岡天満宮に移され、桂宮家から明治4年に細川家に贈られ、解体保存されていたものを大正元年(1912)酔月亭の跡地に移築したものである。

池の南には能楽殿が建っている。出水神社の祭神は能楽を嗜むということで、春秋の大祭には神事能が奉納される。夏の夕闇に催される薪能は、篝火に照らされ、熊本の夏の夜の風物詩となっている。

池の東の芝生の中にひときわ高く富士山が聳える。富士山から奥の森へ連なるあたりに流鏑馬の馬場がある。

富士山の裏手には、水前寺成趣園造営を手がけた祭神・肥後細川藩初代藩主忠利の銅像(左)と、忠利の祖父・細川家初代の藤孝の銅像(右)が並んでいる。

水前寺成趣園は、華やかな元禄時代には東屋もたくさんあり、成趣園十景を選んで楽しまれた。細川重賢のとき宝暦の改革で建物は酔月亭一つを残して撤去され、樹木も松だけの質素なものとなった。細川護久の代に版籍奉還で一時官有地となった。

明治10年西南戦争で、熊本の城下は焼野ヶ原となった。旧藩主を敬慕する旧藩士たち崇敬者が相集い、明治11年(1878)細川家に縁のある成趣園を境内地として出水(いずみ)神社が創建された。第2次世界大戦の戦禍で社殿はほとんど焼失し、辛うじて難を免れた御神庫と神楽殿を旧社地に移し仮社殿としていたが、昭和48年(1973)に新社殿が再建された。

創建当初は細川藤孝ほか3柱の藩主を祀っていたが、のちに歴代藩主10柱および忠興公室ガラシャ夫人が合祀されている。

拝殿の左手の建物が戦禍を免れた神楽殿である。拝殿と神楽殿の間の五葉松は、樹齢数百年といわれる古木である。

出水神社の社殿の右手に境内末社の稲荷神社がある。10代藩主細川斉茲により、文化6年(1809)に勧請鎮座された。天保9年(1838)には斉茲の母・瑶台院勧請の二本木御殿鎮守の稲荷社も合祀された。