半坪ビオトープの日記

天草上島、千巌山


水前寺成趣園から一路南下し、天草に向かう。宇土半島先端の三角(みすみ)から、天草諸島大矢野島、永浦島、池島、前島を経て天草上島までを結ぶ上天草市内の5つの橋を総称して、天草五橋と呼ばれるが、昭和41年(1966)に開通した。この間は天草パールラインとも呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。二号橋から五号橋まではほぼ連続し、大小約20の島々が浮かんで天草松島と呼ばれ、日本三大松島の一つに数えられる。五橋を通り天草上島に渡り左(東)に向かうとすぐ松島温泉がある。部屋から釣りができるという海辺の宿の前(北西)には、天草松島の中島が見える。

宿の右前方(北東)には維和島が横たわっている。天草上島の北東端から大戸ノ瀬戸を越えて、維和島に渡る送電線の大きな鉄塔が連なっているのが確認できる。天草下島の苓北火力発電所から北上し、九州本土の熊本市まで伸びる九州電力の送電線である。

天草五橋の展望台としては、パールラインの松島展望台と高武登山(たかぶとやま、117m)がよく知られているが、高武登山と同じく国の名勝に指定されている千厳山(せんがんざん、162m)の方が高いので、朝早くそこに向かった。千巌山は海岸から2kmと離れていないのに、名前の通り奇岩、怪石が重なり合い、岩間には姫小松が生育して特異な景観を示している。

断崖絶壁の岩の間から深い谷を越えた南の方角には、千元森嶽(233m)と天草青年の家が見える。その間の彼方に三角形の山、次郎丸嶽(397m)がかすかに認められる。

真夏の早朝なので、北に見える天草五橋方面もやや逆光気味でまぶしい。正面に松島の前島があり、その左手に天草五橋の4号橋がようやく見分けられる。東(右)に八代海、西(左)に有明海島原湾が、晴れ渡っていれば、北東には遠く阿蘇山まで見えるという。

やや左に目を移すと、眼下には松島有料道路にかかる大きな橋が見え、正面には天草松島の小島や桶合島、永浦島などが眺められる。

もう少し左(北西)には、霞んでなければ遠くに雲仙岳が見えるそうだ。江戸時代初期の寛永14年(1637)、キリシタン殉教戦いわゆる天草・島原の乱の総大将、弱冠16歳の天草四郎時貞が信徒の将兵を集め、島原出陣の祝酒を手杓子で酌み交わしたという伝承から、手杓子山と呼ばれ親しまれていたが、日本国立公園生みの親の親田村剛博士がこの山に登って、あまりの奇岩怪石に感嘆し千巌山と命名し、今日に至っている。

さらに西に目を転ずると、西目海水浴場の向こうに、細長い半島の先に龍崎が見える。

駐車場の近くに「キリシタン殉教の丘」の標識が立っていたので、立ち寄ってみた。
天草・島原の乱は、寛永14年から15年(1638)2月 27日〜28日にかけて、幕府軍124,000人の総攻撃を受け、キリシタン一揆勢37,000人は島原の原城で全滅し落城する。

慶長18年(1613)のキリシタン禁教令発布の後、寛永6年(1629)から殉教者が続出し、寛永13年(1636)には3年続きの凶作や飢饉で餓死者が多かったにもかかわらず、過酷な年貢の取り立てとキリシタンに対する迫害や弾圧が続いた。それに耐えかねて起った、日本史上最大規模ともいわれる農民一揆が、天草・島原の乱である。当地からも多くの信者が参戦した、殉教戦の歴史を後世にも末永く伝えていくための丘として、十字架とともに石碑が当地に平成21年に設置された。

今回、立ち寄る時間がなかったが、上天草市には、天草四郎メモリアルホールがあり、寛永14~15年(1637~38)の天草・島原の乱で総大将となった天草四郎等蜂起軍が、島原の原城で一人(山田右衛門作という南蛮絵師)を除いて全員討ち死にした攻防などのジオラマや、南蛮文化などの資料が展示されている。
また、天草市にある天草キリシタン館では、永禄9年(1566)、天草にキリスト教が伝来してからの南蛮文化、寛永14~15年(1637~38)の天草・島原の乱、乱後の天領となった時代の潜伏キリシタン遺物など、天草のキリシタン史の資料が展示されている。