半坪ビオトープの日記

成巽閣


食事が済んだら初日に見た兼六園以外の見どころを廻ることにした。まずは兼六園の裏手にある成巽閣に入る。文久3年(1863)加賀藩主第13代前田斉泰が母堂にあたる12代奥方・真龍院(鷹司隆子)の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡に造営したもので、金沢城から東南・巽の方位にあるので巽新殿と名付けられたが、明治7年に兼六園が一般公開された時に成巽閣と改称された。正門は、風格のある塀重門とし両袖に海鼠塀が続いている。正門を入ると、池に見立てた苔が見事な玄関前庭がある。

成巽閣は、二階建、寄棟造杮葺きで、幕末武家造りの遺構として他に類例がないと評価されている。階下は上段18畳・次の間18畳の謁見の間、寝所の亀の間、居間の蝶の間等整然とした武家書院造りとし、階上は群青の間を中心とした数寄屋風書院造りの七室からなり、格天井・花鳥欄間・壁の意匠に趣向が凝らされている。江戸時代に建てられた大名の建造物がそのまま残っているのは、全国的にもこの成巽閣だけとされる。

部屋の中は撮影禁止のため、1枚だけパンフの切り抜きを載せる。加賀百万石前田家を象徴する謁見の間は、公式の対面所として使用された。花鳥の欄間を境とし、折上格天井が用いられ、材には色漆、壁は金砂子の貼壁、障子の腰板には花鳥の絵が施されるという華麗で瀟洒な造りを特色とする。欄間は、檜の1枚板を両面透彫とし、梅の古木と椿に極楽鳥が五彩の岩絵具で描かれている。前田家御細工所の名工・武田友月の作と伝えられている。

兼六園に続く裏手の赤門近くの清香書院の一角の土間には、国の名勝に指定されている飛鶴庭の曲水を導いているため、庭との一体感が楽しめる。飛鶴庭に続くつくしの縁庭園は、一面苔で覆われた平庭造の庭園で、雄松(黒松)・五葉松・八汐・楓・紅梅・満天星(ドウダンツツジ)などが配され、その合間を辰巳用水に導かれた兼六園の曲水の分流が遣水として曲流している。下草には、銀縁笹・雪の下・木賊イカリ草・黄蓮・大文字草などが見られる。このつくしの縁は、長さ20mもの間に1本の柱もないユニークな構造で、柱に遮られずに開放感あふれる庭園が眺められる。その軒先は「桔木(はねぎ)」と呼ばれる約40cm角、長さ10mの松材が2m間隔に組み入れられ、梃子の原理で支えられている。

万年青縁庭園は、つくしの縁庭園とは対照的に大小の築山が造られ、五葉松・雄松・雌松(赤松)・キャラ木などの古木を配している。遣水は深くなり、下流には落差によって水音が響くように工夫されている。

江戸時代末期に建てられた巽御殿とも呼ばれたこの建物に住まわれた、最後の13代藩主前田斉泰の母堂にあたる12代奥方・真龍院隆子は、折にふれて縁側を下りて、兼六園に続く裏手の赤門から大きな庭である兼六園に入って散策したことと思われる。これは成巽閣の赤門を兼六園側から見たところである。

成巽閣の西隣には金沢神社があり、その脇に金沢の地名の由来となった清水が湧き出る金城霊澤があるのだが、次に金沢城の石川門に向かうため東に向かった。成巽閣の東隣には県立伝統産業工芸館があり、その向かいには石川護国神社の大きな鳥居が立っている。戊辰戦争で戦死した加賀藩戦没者の霊を祀るため明治3年に卯辰山に創建され、昭和初期に現在地に移転した。