半坪ビオトープの日記

熊本城、天守閣から


天守閣の西側面を見る平左衛門丸から、天守閣の南にある本丸御殿への正式な入り口である地下の闇り(くらがり)通路を潜り抜けて本丸広場に躍り出ると、大小天守閣の東側面が目前に聳える。
熊本城の天守は、東側から見てもわかるように連結式望楼型で、大天守は3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。大天守は一般に5重の天守とみられるが、2重目と4重目は屋根ではなく庇とされる。萩城天守と同様に天守台から少し張り出す「張出造」で、張り出し部分には石落としが設けられていた。現在、観光出口となっている付櫓は階段櫓で、そのまま多聞櫓が本丸御殿へ繋がっていた。さらに闇り(くらがり)櫓門、地蔵櫓門の3階部分を通じて数奇屋丸五階櫓、数奇屋丸櫓門へと外から一度も見られることなく西出丸へ出ることができた。

天守天守台は大天守に被さるように造られており、大天守天守台石垣の勾配より急角度であり、また天守台と建築物の間には名古屋城天守と同様に60cm程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。

天守閣の内部は現在、熊本市立熊本博物館の分館となっており、肥後歴代藩主の武具や調度品のほか、西南戦争の資料などを見ることができる。入り口には谷村計介の銅像が立っている。谷村計介は宮崎県出身の陸軍伍長で、西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城(たにたてき)の命を受け、城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも逃げ出し、官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた。後に自ら進んで田原坂戦に加わり戦死した。

これは昭和35年天守閣とともに製作された鯱。左は大天守閣用で高さ155cm、右は小天守閣用で高さ130cm。平成19年の修復工事で新しい鯱と取り替えられた。

健在時の熊本城とその周辺の模型もある。これは昭和35年の大小天守閣復元工事の際に作られた、10分の1の模型である。

天守最上階から全方位の景色を見ることができる。こちらは小天守がある北の方向。小天守にも入ることができる。小天守の裏手には、加藤神社の森が見える。加藤清正主祭神とし、祭神に殉じた大木兼能、韓人金官を配祀している。

東の彼方には阿蘇山が大きな外輪山と共に見渡せる。左端の方に噴煙を噴き上げているのが、噴火警戒レベル2(火口周辺規制)の阿蘇山中岳である。その後9月中旬には警戒レベルが3に引き上げられた。熊本市街の手前の眼下には本丸広場と五間櫓などが建ち並ぶ東竹之丸が見える。

南の方角には、眼下に本丸御殿の屋根が大きく広がり、彼方には九州山地の山並みがかろうじて眺められる。

西南西方向には、西大手門から奉行丸の未申櫓が見え、その彼方の左に花岡山(132m)が見える。山頂には白い仏舎利塔が小さく認められる。

西の方角には、眼下に秀麗な姿の宇土櫓が建ち、その向こうには西出丸および二の丸広場が広がる。彼方には金峰山(665m)が見える。金峰山は一ノ岳を中央火口丘とするカルデラ式火山で、熊ノ岳や三ノ岳などの外輪山を含む山の総称である。やや離れた低い花岡山も外輪山である。その成立は阿蘇山より古く、過去100万年以上かけて徐々に形成された。金峰山山麓には拝ヶ石巨石群や、宮本武蔵が籠って五輪書を書いたことで知られる霊巌洞などがある。