半坪ビオトープの日記

彦根城、天守から


徳川四天王の一人・井伊直政は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。直政は中性的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山に居城を移すことを計画したが、関ヶ原での戦傷が癒えず、慶長7年に死去した。幼少の直継(直勝)が家督を継いだが、家老の木俣守勝が家康と相談して、慶長8年(1603)彦根山に築城を開始した。慶長11年(1606)天守完成の頃直継は入城した。御殿などすべての工事が完了したのは元和8年(1622)である。
彦根城天守は、梁行に対し桁行が長い長方形で、表門から登って目に入った東面や琵琶湖側の西の面は端正な佇まいを見せるが、逆に北や南の面はどっしりと幅が広く安定した面持ちを見せる。一層目は大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸になっている。
北東から見たこの姿は、変化に富む破風の様子がよく見える。一層目の軒に並ぶ「へ」の字形の切妻破風は大きさと奥行きに変化を持たせ、二層目は南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北に唐破風が設けられている。瓦や金具装飾にあしらわれているのは、井伊家の家紋である「橘」の紋である。

彦根城は戦のための城で、壁の鉄砲狭間や矢狭間も外からは見えない隠し狭間とされ、敵が中に攻め入っても、階段を登ってくる敵を上から突き落とせるように、急な角度(62度)になっている。梯子のような階段もいざとなれば蹴って落とせるように引っ掛かっているだけである。鉄砲狭間と矢狭間は合わせて75カ所もあり、武者隠しのような小部屋も4カ所ある。
天守閣内部に入ると彦根城の古写真や城壁の説明などがあり、数段の階段を2度上がった廊下の曲がり角には、井伊直弼像が安置されていた。井伊直弼は文化12年(1815)14代藩主・直中の14男として槻御殿(今の玄宮楽々園)で生まれた。直弼は「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」という和歌を詠み、埋木宮と名付けた屋敷で朽ち果てることを覚悟していたが、兄直元の病死により35歳で急遽15代藩主に就任した。そして大老として日米修好条約に調印した。しかし2年後の万延元年(1860)江戸城桜田門外において攘夷派に襲われ、46歳の生涯を閉じた。彦根で最も有名な歴史上の人物とされてよく知られている。

急角度の二層階段、三層階段を上って最上階に着くと、周辺の景色がよく見える。
東方向を眺めると、佐和山の手前に彦根駅周辺に広がる市街地が眺められる。

彦根城の建築物には、大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多聞櫓と太鼓櫓門、小谷城から西の丸三重櫓、長浜城から天秤櫓などと移築伝承が多くある。
東から東南方向に目を移すと、すぐ下に潜ってきた太鼓門櫓が見える。

彦根城は明治初期に多くの城と同様に解体の危機に見舞われた。しかし今も往時の面影が残るのは、明治天皇が北陸巡幸の帰りに彦根を通った際、保存するよう述べたからといわれる。
南西を眺めると、彦根市街地の右手に琵琶湖が見えてくる。湖岸近くの小さな山は、荒神山である。

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城であり、このうち松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝となっている。
西の方向には琵琶湖が大きく広がっている。正面彼方に見える小島は、多景島であろう。

北の方向には、琵琶湖岸に接する磯山城跡がのこる磯山が見えるが、その北の長浜などは残念ながら霞んで見えない。