半坪ビオトープの日記

熊本城、宇土櫓


宇土櫓は、本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇る。現存する他の天守と比べても、姫路城、松本城松江城天守に次いで4番目の高さである。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在したが、西南戦争での焼失を免れ、創建当時(慶長年間:1596~1614)から唯一現存しているのがこの宇土櫓である。貴重な木造の櫓として、国の重文に指定されている。

古くから小西行長宇土天守を移築したものと伝えられて、それが宇土櫓の呼び名の起こりとされていたが、平成元年の解体修理の調査から、熊本城内で創建されたことが明らかとなった。ほかにも宇土櫓の名前の由来として、宇土(うと)の小西行長関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路として現在に名を残す京町に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことからそう呼ばれたのではないかともいわれる。西出丸側(西)から見ると、高石垣や長い平櫓と隅櫓も含めて全体が見られて格好が良い。

天守閣の左手の平左衛門丸からは宇土櫓を近くから見ることができるので、その美しさをゆっくりと堪能できる。宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもあるが、この鯱は旧来からあったものではなく、昭和2年(1927)に陸軍が解体修理をした際に、城内に保管してあった鯱を取り付けたものである。この鯱は青銅製で高さ96cm、重さが約60kgある。鯱は阿と吽の2体で1対であり、阿は雄、吽は雌である。

直線的な破風と望楼に、廻縁勾欄を廻らせた建築様式で、木材は主に松を使い、他に栂・楠・栗等も使用している。屋根瓦は4万6千枚にも達し、その中には400年の歳月に耐えた加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っている。他にも火除けの巴紋、細川時代の九曜紋の瓦も混じっているという。時代別には、元禄、宝永、宝暦、文政等の瓦も発見されている。

熊本城に多くあった多重櫓は望楼型であるが、普通、望楼型といえば入母屋型屋根の上にまた入母屋型屋根の建物が重なる形式で、下層の屋根は入母屋破風となる。ところが宇土櫓の三角形の破風は千鳥破風である。

宇土櫓の内部は一般公開している。一部に耐震補強されているが、それ以外は建築当時のままであり、階段もかなり急勾配である。

宇土櫓最上階からも各方面が望見できる。こちらは南南西から西の方角で、西出丸と西大手門の彼方には、花岡山から金峰山へと続く山並みが見える。

東を向けば、正面に熊本城の大天守と小天守が並んで見える。

宇土櫓を出て大天守の石垣のそばに行くと、四角い井戸がある。清正は文禄・慶長の役の時、蔚山城(うるさんじょう)で明・朝鮮連合軍を相手に苦しい籠城戦を体験した。そこで熊本城を築城するにあたり、籠城の備えを万全にした。井戸もその一つで場内に120以上掘られたといわれる。

平左衛門丸からの帰り道、頰当御門から本丸御殿へ向かう道の脇に、「首掛け石」という風変わりな石造物がある。熊本城築城の折、横手の五郎という怪力無双の若者が、花岡山から首に掛けて運んできた石と伝えられ、重さは1800kgある。五郎は天草国人一揆の際に、加藤清正と一騎打ちの末に殺された木山弾正の遺児で、清正を父の仇と狙い、城内に人夫として入り込んでいたが、見破られ殺されたと伝えられている。