半坪ビオトープの日記

姫路城、大天守から


天守からの展望を楽しんだ後は、ひたすら下っていく。これは3階の東大柱である。東大柱は上下で継がれることなくそのまま伸びている。根元は腐ったために補修を受けたが、元々は長さ24.8mの樅の一本柱である。西柱と同様、所々、金属のバンドで補強がされている。

天守の見学を終えて「水ノ四門」から外を眺めると、西を向いているので先の方に西の丸が見える。右手前の櫓は化粧櫓であり、左奥に続く細長い「長局」(百間廊下)の真ん中ほどの櫓が「るノ櫓」である。化粧櫓は、徳川秀忠と江(崇源院)の長女として生まれた千姫のために造られた。千姫は一度は豊臣秀頼に嫁ぐのだが、大坂夏の陣で秀頼と死別した後は、本多忠刻と再婚して姫路城で約10年間過ごした。当時は「播磨姫君」と呼ばれていた。その後、忠刻とも死別したため江戸城に移り、出家して天樹院と号した。千姫に使えた侍女たちが暮らしていた百間廊下が長局と呼ばれる。長局がここまで完存している例は、全国でもこの姫路城西の丸だけといわれる。

備前丸の広場に降りていく下り通路は、後世造られたものである。備前丸に降りてすぐ振り返ると、西天守の右手に大天守、左手に乾天守と、東天守を除く三つの天守群が揃って見える。
平成5年(1993)にユネスコ世界遺産に登録された姫路城は、中堀以内のほとんどの地域が特別史跡に、現存建築物のうち大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物が重要文化財に指定されている。

備前丸から見上げる姫路城は大きすぎる。少し離れて眺める方がよい。
姫路城の始まりは、北朝貞和2年(南朝正平元年、1346)の赤松貞範による築城とする説が有力視されている。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦い後に城主となった池田輝政によって、慶長6年(1601)に大改築が始まり、大天守と小天守3基の連立式天守が9年後に完成した。

その後、元和3年(1617)に城主になった本多忠政が、三の丸、西の丸他を増築し、現在のような大規模な城郭になった。その後、松平、榊原、酒井各氏が城主を継ぎ、明治2年に酒井忠邦が版籍を奉還し、姫路城は国有となり、昭和に入り国宝となる。
明治の大修理、昭和の大修理を経て、平成の修理は平成27年(2015)3月に終えたばかりである。

標高45.6mの姫山の上に建つ大天守の高さは、石垣が14.8m、建物が31.5 mある。外観としては、最上部以外の壁面は大壁塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加え、緩やかな曲線を描く唐破風、山なりの千鳥破風に懸魚が施され多様性に富んでいる。2重目南面中央に軒唐破風と下に幅5間の出格子窓を設けているのが珍しい。

帰りは備前門から井戸曲輪を進み太鼓櫓に向かう。左に見えるのが帯郭櫓で別名、腹切丸とも呼ばれる。正面突き当たりが今でいう太鼓櫓で昔は「への櫓」と呼んだ。脇に「りの門」がある。この門の解体修理中に「慶長4年、大工五人」の墨書きが見つかり、姫路城内唯一、池田輝政時代以前に建てられた証拠とされる。

「りの門」を過ぎると二の丸に出る。通路の左に「お菊井戸」という古い井戸がある。「播州皿屋敷」の主人公お菊が攻め殺されて投げ込まれた井戸と言われるが、元は釣瓶取井戸と呼ばれていたそうだ。

二の丸最後の「ぬの門」の手前左側にある「りノ一渡櫓」の前には、大天守の歴代の鯱瓦の実物が展示されている。姫路城は江戸時代から残る現存天守だが、鯱瓦については1体しか残されていなかったため、「昭和の大修理」の際には同じ形のものを作成して載せた。現在、大天守には計11尾の鯱瓦が載っているが、今回の「平成の大修理」では最上部にある大棟の一対だけを交換したという。全てのモデルが貞享4年(1687)の鯱瓦である。