半坪ビオトープの日記

首里城、南殿・北殿


正殿に向かって広い御庭(うなー)の右手には「南殿・番所」が並び立っている。「南風御殿(はえのうどぅん)」とも呼ばれた南殿は、日本風の儀式が行われた場所であるが、現在は資料展示に使われている。南殿の2階が裏側にある「書院・鎖之間」に渡り廊下で繋がっている。書院は国王が日常の執務を行った建物で、御書院と呼ばれる広間がある。取次役や近習などの側近の者が周囲に控えていた。ここで中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、接待を行うこともあった。創建年は不明で、1709年の火災で焼失し、1715年頃に再建されたという。

書院の奥には内炉之間という茶室があり、お茶を点てて客人に振舞っていた。他にも茶道具一式を用意した御茶之間という座敷がある。

現在、書院は琉球建築と庭園とが一体となった空間を体感できる一般見学施設となっていて、併せて復元の際に使用した和釘や瓦、継手・仕口、漆喰塗りなどを展示している。庭園は琉球石灰岩の露岩と高麗芝、琉球松、蘇鉄、琉球黒檀、珊瑚樹などで構成されている。

書院の庭先から右手に「鎖之間(さすのま)」という王子などの控え所の建物が見える。

鎖之間には、諸役の者達を招き懇談する御鎖之間と呼ばれる広間があり、奥には裏御座という茶室があって客人にお茶を点てて振舞っていた。

現在、この鎖之間において、往時の賓客がおもてなしを受けたように、琉球王国時代の伝統菓子とお茶で接待を受ける有料体験ができる。我々はたまたまクーポン券を持っていたので、無料で接待を受けることができた。

日本庭園とは異質の庭は、白茶けた琉球石灰岩の露岩に濃緑色の蘇鉄が簡素に映えている。庭園の奥は内郭石積みとなっているが、庭園の高さが巧みな変化を見せて、青空を借景として取り込むことによって、庭園の広大感と開放感を醸し出している。

正殿の左側には北殿が建っている。北殿はかつては北の御殿(にしのうどぅん)、議政殿とも呼ばれ、王府の行政施設として機能し、表15人衆(大臣)や筆者、里之子(さとぅぬし)と呼ばれる役人等が働いていた。創建は1506-1521年頃とされ、1709年の首里城大火で焼失し、1712年頃再建された。近年、沖縄サミットの晩餐会で利用され、首里城ミュージアムショップもある。
館内には、朝拝御規式や冊封式典の模型などが展示されている。これが朝拝御規式すなわち正月儀式の様子で、元旦と2日に行われる。

こちらは冊封儀式すなわち国王の任命儀式で、どちらも1/25の模型で精巧に再現されている。

模型の次に大きな中国風の傘が展示されていた。琉球では「御涼傘(うりゃんさん)」といい、日傘から発生したものだが、実際には国王や高貴な人が行幸するときの装飾用として使われた。

北殿の裏側(北側)は眺めの良い展望台となっていて、眼下にはハンタン山の緑を映す龍潭(りゅうたん)の池や沖縄県立芸大が見え、西北の彼方には那覇港などの東シナ海が認められる。

そのまま北東に目を転ずると、すぐ前に右掖門がある。別名「寄内御門(よすふぃちうじょう)」ともいい、創建は15世紀頃とされる。沖縄戦で焼失したが、1992年から2000年にかけて城壁部や櫓が復元された。現在は御庭からの出口として利用されている。右掖門の左下には円覚寺跡があり、彼方には首里の町並みとNTTドコモの電波塔が見える。