半坪ビオトープの日記

金沢城、石川門


兼六園の西に国史跡の金沢城跡がある。金沢城は、小立野台地の先端に築かれた平山城である。天正8年(1580)に佐久間盛政が領主となってから城造りが始まるが、天正11年に前田利家が入部し、以後、14代に亘り「加賀百万石」で知られる前田家の居城となった。兼六園下から紺屋坂を上がり、石川橋を渡ると石川門である。

石川門は、江戸時代初期から搦め手門とされ、現存の建物は宝暦大火(1759)後、天明8年(1788)に再建されたもので、表門(一の門)、左右太鼓塀、櫓門(二の門)、続櫓、石川櫓などからなり、国の重文に指定されている。表門左手の白漆喰の壁が鮮やかな石川櫓を眺めつつ枡形の中に入る。

枡形に入ると櫓門の海鼠壁、大きな刻印のある割石積みの石垣や切石積みの石垣を真近に見ることができる。櫓門の切込み接ぎ(はぎ)の石垣は極めて精巧に組まれている。

櫓門(二の門)をくぐり抜けたところから振り返ってみても、金沢城のシンボルといえる海鼠壁や屋根の鉛瓦が美しい。

石川門から城内に入ると入口休憩所があり、河北門の手前に広々とした三の丸北園地がある。

左手を眺めると、三の丸広場の芝生の向こうに橋爪門続櫓と五十間長屋が見える。三の丸は、石川門と河北門の内部の郭を指し、利家が入城した後、重臣の居宅が建てられたが、その後これらを場外へ移し、高知番所、物頭番所が置かれた。

五十間長屋の右端には、菱櫓が勇姿を見せている。文化5〜7年(1808~10)に再建された二の丸建物は、明治14年の火災で焼失したが、平成13年に菱櫓・五十間櫓などが復元された。

河北門は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する三の丸の正面であり、金沢城の実質的な正門である。石川門、橋爪門とともに金沢城三御門と呼ばれているが、宝暦の大火(1759)の後、三御門の中で最初に安永元年(1772)に再建された重要な門である。

菱櫓等を支える石垣は、高さが11.7mあり、内堀の復元にあたって櫓台石垣の修築も行われた。内堀三の丸側の石垣は、形の整った割石を組む打ち込み剥ぎの石垣である。五十間長屋の突き当たりにある橋爪門続櫓は、二の丸の正門であり、橋爪橋を渡って二の丸へ来る人々を監視する重要な櫓で、橋爪櫓とも呼ばれていた。

続櫓の中央には、物資を2階へ荷揚げするための大きな吹き抜けが造ってあった。また、橋爪門も石川門と同様、かつては枡形であったという。