半坪ビオトープの日記

広島城


平和記念公園の北約1Kmに広島城が建っている。天正17年(1589)戦国武将の毛利輝元が築き、毛利・福島・浅野三代が城主となった平城である。原爆で倒壊した天守閣は、昭和33年(1958)に復元された。本丸の手前にある二の丸は、築城400周年・市制100周年を契機に、平成3年から6年にかけて復元された。御門橋の右に見えるのは平櫓である。

二の丸の復元建物は、表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓で構成されている。御門橋を渡り表御門をくぐって二の丸広場に出たところで振り返ると、表御門の左に平櫓が見える。表御門の構造は、木造脇戸付櫓門、入母屋造本瓦葺。この石垣と建物に囲まれた二の丸は、馬出しの機能をもつ郭で、全国の近世城郭の中では特異な配置とされている。

平櫓から長い多聞櫓を経て太鼓櫓までが棟続きで復元され、内部が公開されている。平櫓の構造は、木造一重隅櫓、入母屋造本瓦葺、多聞櫓は木造一重渡櫓、切妻造本瓦葺、太鼓櫓は木造二重二階隅櫓、入母屋造本瓦葺である。

長い多聞櫓の内部は資料館になっていて、江戸時代の籠や鯱(しゃちほこ)瓦が展示されている。これは再建時に天守閣に取り付けられたものの、台風や地震で一部損壊し取り替えられた鯱瓦である。

二の丸から本丸へ続く堤の端に被爆樹木のマルバヤナギがある。爆心地から770mのこの木は、原爆にも耐えて生き残った。

本丸下段の左手に護国神社を見て、本丸上段に進むと真中に大本営跡があり、右手に被爆樹木のクロガネモチが立ち、左手にこのナナミノキが立っている。本州の静岡以西、四国九州の山地に自生するモチノキ属の雌雄異株の常緑高木で、別名をナナメノキという。花期は6月頃で淡紫色の花を咲かせ、秋には赤い実を多数つける。名の由来は、美しい実を多数つける(七実の木)、枝を折ると一様に斜めに割れるナナメノキが訛ったなどの説がある。

広島大本営跡は、明治27年(1894)に勃発した日清戦争の指揮のために広島城内に設置された大日本帝国軍の大本営の跡である。当初は東京にあった大本営は、当時東京を起点とする鉄道網の西端であり、大型船が運用できる宇品港(広島港)があったことで、前線に向う兵站基地となった広島市に移った。戦争指揮のため明治天皇も移り、帝国議会も広島臨時仮議事堂で開会されるなど、国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、広島市は臨時の首都機能を担った。これは明治維新以降、首都機能が東京を離れた唯一の事例である。明治29年(1896)大本営解散後は文化財として保護され、国の史跡にも指定されたが、原爆投下で建物は全壊した。

本丸敷地の左奥(西北)に天守閣が復元されて建っている。広島城日本100名城の一つで、大坂城岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なものである。名古屋城岡山城と共に日本三大平城とも呼ばれる。毛利輝元天正17年(1589)に築き始め、1591年に入城した広島城天守閣がいつ完成したかは諸説あるが、1592年から1599年までには完成したと考えられている。
昭和20年の原爆で天守閣は倒壊した。戦後、昭和26年の国体に際して一時的に木造の模擬天守が建てられたがすぐ解体され、その後、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造で天守閣が復元された。天守閣の高さは石垣が12.4m、建物が26.6mで、合計39mとされる。
広島城は、別称「鯉城(りじょう)」と呼ばれる。昔この辺りは「己斐浦」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったといわれていることからこの名がついたという。

天守閣の内部は博物館となっていて、広島城の成立と役割、城下町広島の暮らしと文化をテーマにし、甲冑・刀剣等も展示している。5階(最上階)は展望室となっており、東の広島駅方向を眺めると、背の高い中国放送RCC)の塔が見え、その左には双葉山が見える。

展望室から南を眺めると、本丸内の護国神社の森の彼方には背の高いリーガロイヤルホテルが見え、大きな内濠の突き当たり右にはグリーンアリーナの屋根が見える。その間に原爆ドームの頭が見えるというのだが、残念ながら認められなかった。それでも広島市の中心部に位置する広島城からは、そのほとんどの範囲を眺めることができた。