半坪ビオトープの日記

呉、大和ミュージアム


広島湾に突き出た宇品島で泊まった翌朝、広島港からフェリーに乗って呉港に向かった。

フェリーの旅はたった20数分だが、大小入り交じった島々の間を抜けて、瀬戸の海を少しでも味わいたいと思った。向こうに見える大きな島は江田島である。

かつて日本一の軍港であった呉港には、今でも海上自衛隊呉地方隊の艦船がたくさん停泊している。明治22年(1889)呉鎮守府が開庁、呉海兵団・呉海軍病院が設置され、明治36年(1903)には呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠をもって呉海軍工廠が設立されるなど、戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港、日本一の海軍工廠の街として発展してきた。また戦後には、世界最大のタンカーを数多く建造するなど、日本が世界一の造船国へ発展する一翼を担ってきた。

呉港正面に位置する呉市海事歴史科学館、愛称「大和ミュージアム」は、明治以降の日本の近代化の礎となった造船、製鋼を始めとする科学技術の発展と、呉の歴史とを関連づけて紹介している。大和ミュージアムの左手には「てつのくじら館」が並んでいる。

2005年にオープンした大和ミュージアムの最大の目玉は、戦艦「大和」の10分の1の模型である。戦争終結の目算も立たないままに始められた太平洋戦争は、戦局の悪化とともに総力戦、消耗戦の影響が直接国民に及ぶ結果を招いた。戦艦「大和」が起工された昭和12年(1937)には日中戦争に伴い、日本軍初の航空機による渡洋爆撃が行われた。前日から公試中の主砲射撃テストを終えた昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃が開始された。翌17年6月のミッドウェー海戦の敗北から日本海軍は守勢に回り、同年12月に大本営ガダルカナル島の撤退を決定する。昭和19年6月にはアメリカ軍による本土空襲が始まり、11月から東京大空襲が始まり、翌20年(1945)3月には呉空襲が始まった。4月6日に山口県徳山を出航した「大和」は翌7日、九州南西沖でアメリカ海軍空母艦載機の波状攻撃に遭い撃沈した。最終時の乗組員は3,332人で、生存者は僅か276人だった。

戦艦「大和」は、日本海軍の持てる最高の科学技術の総結集として計画され、巨大な主砲を搭載し、戦艦同士の遠距離砲戦に勝ち抜く力を備えていたが、空母艦載機の波状攻撃にはもろくも潰え去った。一方、製造にあたって開発・投入されたブロック工法・先行艤装や生産管理システム、製鋼技術などの多数の技術は、造船のみならず新幹線や高層ビル建築など、日本全体に計り知れない影響を与えた。

隣の大型資料展示室には、魚雷や戦闘機などが展示されている。これは特殊潜航艇「海龍」(後期量産型)である。水中を自由に航行・浮上できる世界初の有翼潜水艇だったが、戦争時には先端に炸薬を積んで特攻に使われるという悲劇的な兵器と化した。全長17.28m、乗員2名。

この戦闘機は、零式艦上戦闘機六二型、いわゆるゼロ戦零戦である。昭和15年(1940)に採用された機動性、装備、航続距離において当時の世界トップクラスの性能を持つ戦闘機だったが、熟練パイロット不足のため、昭和19年(1944)10月から神風特別攻撃隊が編成され、多くの人命が失われた。日本の無謀な戦争の象徴ともいえよう。向こうに見えるのは各種砲弾で、戦艦「大和」で使用された46センチ主砲弾などである。

零戦の向こうには色々な魚雷が展示されている。一番左奥の小さな魚雷は九三式魚雷のエンジン部分で、その右の5mほどの魚雷は二式魚雷。九三式魚雷は、燃料酸化剤に純粋な酸素を用いた酸素魚雷で、当時実用化できたのは日本だけだったという。一番右の10m位の大きな魚雷は、特攻兵器「回天」10型試作型。乗員1名が乗り込み操縦しながら敵艦艇に特攻をかける人間魚雷で、全長9m。何タイプかあるが420基が製造され、20歳前後の若者中心に100人以上が亡くなった。

大和ミュージアムの裏手には赤と黒海上自衛隊呉資料館、いわゆる「てつのくじら館」がある。潜水艦の発展と現況、掃海艇の戦績と活躍に関する資料を展示している。屋内展示は海上自衛隊の紹介だが、展示の目玉はやはり、国内初の実物の潜水艦の屋外展示で、除籍潜水艦の艦内の一部を見学でき、潜望鏡を覗くこともできる。