半坪ビオトープの日記

伊勢神宮、外宮


伊勢神宮は、太陽を神格化した天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ、天照大御神)を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)との2つの正宮(しょうぐう)を中心に、14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社を含めた125社の総称で、正式には神宮という。通常、お伊勢参りといえば内宮と外宮を参拝することを指し、外宮から内宮へ向かうのが習わしとされる。
外宮の表参道入り口には火除橋が架かっている。防火のための堀川に架けられた橋である。

火除橋を渡って広い境内に入ると、正面の鬱蒼とした木々に囲まれた参道入り口には、第一鳥居が建っている。宮域全ては約5500haあり、伊勢市全体の約1/4の面積を占め、その90%以上が宮域林である。

第一鳥居の手前左手に、式年遷宮の祭りや歴史を展示などで紹介するせんぐう館がある。せんぐう館の右には勾玉池があり、池に浮かぶような舞台では舞楽や脳、郷土芸能などが演じられるが、ちょうど工事中であった。

せんぐう館は、20年に一度行われる式年遷宮のプロセスを紹介する遷宮シアターや、遷御の儀の渡御行列の模型、外宮正殿の実物大模型などが展示されているが、撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。式年遷宮は7世紀末から約1300年、戦国時代の100数十年間を除き連綿と続けられてきた伊勢神宮の一大行事である。戦後4回目の式年遷宮が一昨年(2013)行われたが、これまで遷御当日に参列した総理大臣は安倍晋三ただ一人で、戦前「国家神道」最盛期の昭和4年(1929)の遷御儀礼浜口雄幸総理が参列して以来であり、84年ぶり史上2回目である。戦後、伊勢神宮は国家から離れて私的宗教法人となったため、私人と強弁しようと総理として遷御行列に加わることは、国の宗教活動を禁じる政教分離の原則に反することは明白である。戦前の皇国史観による国家神道化の中心として伊勢神宮が果たした負の歴史を、戦後70年経ってまだ理解も反省もできないのは、極めて問題である。

伊勢神宮が7世紀に創立されてから19世紀に至るまで、在位中の天皇は一度も伊勢を参拝したことがなく、明治天皇が史上初めて明治2年(1869)に伊勢を参拝したことにより伊勢神宮の位置付けが質的に変化した。天皇の参拝前の半年で、神仏分離の徹底化として宇治と山田を含む渡会府にあった258の寺院のうち183が廃寺とされ、御師の廃止、大麻や暦の頒布禁止により、江戸時代にお蔭参りで賑わった伊勢の参拝者は激減した。ところが昭和4年(1929)の浜口雄幸総理が参列した式年遷宮の際には、強制もあるが全国的に奉祝気分に包まれた。もちろん国家儀礼と化したので、陸軍・海軍も参加している。今まで天照大神天皇の祖先神としてきたのを、この後、天皇自身を神として位置付け、「神国日本」は戦争へと突き進む。昭和16年(1941)の宣戦布告の翌年、天皇自ら史上初の戦勝祈願の伊勢行幸を行った。戦後の憲法政教分離となり、伊勢神宮は私的宗教法人となったが、天皇は「国民の象徴」として残り、伊勢神宮との繋がりも残った。昭和49年(1974)天皇遷宮後初の神宮参拝を行い、新しい伝統が始まった。式年遷宮天皇主体の公的儀礼としての色彩を強め、天皇及び皇室への再神聖化へ進むことは、たとえ伊勢神宮が望んだとしても、好ましいことではない。

せんぐう館を出て一の鳥居をくぐって表参道を進むと、鬱蒼とした木々に囲まれた薄暗い参道に二の鳥居が建っている。

なおも進むと森は開けて、右手に入母屋造の神楽殿が姿を表す。祈祷の神楽や御饌(みけ)を行う所で、神札やお守りなどの授与も取り扱っている。

楽殿の先、右手には小石が敷き詰められただだっ広い大庭があり、九丈殿と五丈殿が建っている。大庭では遷宮祭の玉串行事や幣帛点検の儀式が行われる。九丈殿の手前に一段高い石段があり、その上に榊が1本だけ立っているが、これは社殿を持たない四至神(みやのめぐりのかみ)である。神宮の神域の四方の境界を守護する神であり、またその祭壇でもある。年に5回、九丈殿で祭儀を行い、奉幣の儀が四至神に捧げられる。社殿のない神社で、磐座(いわくら)祭祀の形態を残している。
手前の九丈殿では、外宮の摂社、末社、所管社の祀りが行われ、左奥の五丈殿では、雨天の時の修祓や遷宮諸祭の饗膳(儀式としての祝宴)などが行われる。