半坪ビオトープの日記

松阪、本居宣長記念館


7月下旬に松阪と伊勢志摩を巡った。松阪商人で知られる松阪は、近江国日野出身の戦国武将・蒲生氏郷により築城された松坂城を中心に開かれた城下町である。四五百森(よいほのもり)という丘陵上の松坂城跡に、本居宣長記念館および本居宣長の旧宅「鈴屋」がある。

本居宣長記念館の脇には大きな石碑が建っている。記念館開設を祝して建てられた高さ3mもあるオベリスクで、表には和歌、裏には「戴恩之記」と題する一文が刻まれている。宣長五世の孫、本居清造により旧宅が松阪市に寄付され、その子・弥生より多量の遺品を譲渡されるなど、恩恵を受けた経緯を記している。表の和歌は、本居清造の静読古人書と題する歌というが、残念ながら読み取れない。

本居宣長記念館は、宣長の実子・本居春庭の子孫の家に伝わった資料や、宣長の養子・本居大平の子孫の家に伝わった資料などを所蔵し、うち467種1949点が国の重文に、20種31点が三重県有形文化財に指定されている。鈴屋遺蹟保存会が、記念館および宣長旧宅など関連史跡を管理運営している。
本居宣長(1730~1801)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師で、名は栄貞、通称ははじめ弥四郎のち健蔵、号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義したことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれ、また、荷田春満賀茂真淵平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。この絵は宣長44歳自画自賛像で、国の重文に指定されている。花瓶に挿した山桜を前にして宣長が身にまとっているのは、歌会や講釈等で着用した「鈴屋衣」である。

記念館内には、本居宣長の著書、蔵書、遺品、板木のほか関連資料がたくさん展示されている。これは「本末(もとすえ)の歌」。本は必要なこと、末はそれほど重要ではないこと。本と末の区別が大事だよと宣長は教える。

こちらは「板文庫所詠歌」。紀州藩主・徳川治宝に御前講釈を行った際、褒美として「板文庫」を拝領して、喜んで詠んだ歌である。

これは宣長の読書雑記。当時禁書だった「職方外記」からの引用で、ヨーロッパやアフリカなどの位置を記した箇所である。

ちょうど夏の特別展「宣長、地図を描く」の展示中であり、地図マニア宣長の「自筆地図」が勢揃いしていた。1746年、17歳の時に作ったのがこの「大日本天下四海画図」。畳一枚ほどの大きさに3100の地名が描かれている。1821年、伊能忠敬が作成した測量地図「大日本沿海輿地全図」より70年ほど前に書き上げている。

こちらは19歳で宣長が描いた「端原氏城下絵図」。御所を中心とした空想上の都市図である。この絵図に住んでいる架空の「端原氏」一族や家臣の系図、「端原氏系図」も残されている。

宣長は松坂の木綿商の家に生まれたが、読書好きで家業は継がず、医業の傍ら『源氏物語』や『古事記』など日本の古典を研究し続けた。『源氏物語』からは「ものの哀れ」という物語の核心を取り出した。35年かけて『古事記伝』44巻を執筆した。1000年もの前の『古事記』を読むことができる人は既にいなくなって久しく、宣長さえも一番最初に出てくる「天地(あめつち)」という2字を読み解くのに5年くらいかかったという。実際に「天地」「初発之時」「高天原」の9字について、数千字に及ぶ注釈が施されているのだから、その徹底ぶりには驚かされる。宣長は、古事記の一語一語の「言(ことば)」を明らかにすることを通じて、古代の「意(こころ)」を明らかにし、古代の「事(こと)」を明らかにしていった。『日本書紀』の良さを一部認めつつも、『古事記』では「言(ことば)」と「意(こころ)」と「事(こと)」が互いに適合しているという言語観から、『日本書紀』の「漢意(からごころ)」批判に傾いていった。

宣長の『古事記伝』は、近世における古事記研究の頂点をなし、実証主義的かつ文献学的な研究として高く評価され、『日本書紀』と比して冷遇されていた『古事記』に対する評価を高めた。しかし、「やまとごころ」を重視して儒教的な「からごころ」を退けるという態度を貫き、日本の神代を尊ぶ国学を確立させたが、『古事記』に記述された神話伝承をすべて真実と信じた天孫統治史観および皇国史観が、明治政府や戦前の軍国主義に利用されたという点において、戦後、各方面から批判されている。

これは『菅笠日記』。明和9年(1772)本居宣長が43歳の時、友人・門人らと吉野・飛鳥を旅した時の上下2巻の日記。吉野の花見や『古事記』などに出てくる名所・史跡を巡る10日間の楽しい旅となった。

記念館内1階には本居宣長像がある。宣長の自画像は、44歳、61歳、72歳のものが知られるが、これは中でも最も有名な61歳の宣長像をもとにしたものといえよう。