半坪ビオトープの日記

安乗埼灯台


志摩国分寺の東北方約3kmの所に安乗集落がある。的矢湾の入り口に位置し、江戸時代、大坂と江戸を往来する廻船などの風待港として栄え、漁業が盛んだったが、東西の文化の影響も受けた。安乗文楽人形芝居でも知られる。武将九鬼嘉隆が武功をたて安乗神社にお礼参りをした時に、現在の文楽人形の始まりである手踊りを許可されたのが起源といわれる。

安乗集落のある的矢湾南岸は波静かだが、安乗崎の岬周辺では暗礁が多く、難破も多発した。そこで延宝9年(1681)に徳川幕府が船の道標として燈明堂をたてたのが安乗埼灯台の起源とされる。当初は約3mの高さの搭上に油紙で囲った灯籠を置き、その中で菜種油を燃やす仕組みのもので、風の激しい折には薪を燃やしていたといわれる。その後、明治6年に初の灯台が点灯した。灯台の手前は安乗岬園地として整備されている。

安乗岬園地の入り口には灯台資料館が設置され、初代の八角形の灯台のミニチュアなど、灯台の歴史や資料などが展示されている。初代の灯台そのものは、当時現存する最古の木造灯台として、解体し横浜の灯台局に移して復元し、現在は東京の「船の科学館」に展示されている。安乗埼灯台は、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となり、ロケが行われたことでも知られ、その資料もここに展示されている。

灯台の手前右手に、駆逐艦春雨号遭難碑と謝状碑がある。明治44年11月に安乗崎沖で帝国海軍の駆逐艦座礁、44人が殉職した。安乗村民は救援活動を行い、20名が救助された。

明治6年、イギリス人R.H.ブラントンにより安乗崎に洋式灯台が建てられたのは全国で20番目だったが、使用したレンズはわが国初の回転式フレネル式である。その後、海蝕等の地盤崩壊により2度にわたり後退を余儀なくされ、昭和23年、現在地に四角形鉄筋コンクリート造りで建て替えられた。珍しい四角形の灯台として全国20番目に完成し、「日本の灯台50選」にも選ばれている美しい白亜の灯台であり、国の有形文化財にも指定されている。

灯台周辺は緑豊かな伊勢志摩国立公園に指定されており、大海原と緑園が一度に楽しめる。南の台地上に見える白い建物は、安乗崎園地の灯台資料館で、海上遥か彼方に見えるのは、城の崎から大王崎である。

この安乗埼灯台は、上ることができる15基の灯台の一つで、波が比較的に静かな的矢湾と荒々しい熊野灘の様子を見ることができる。

北に見えるのは、的矢湾の入り口、安乗崎の対岸にある菅崎であり、右手遥か彼方に横たわるのは渥美半島である。冬のよく晴れた日には富士山も望むことができ、元旦には多くの写真家が集まって初日の出を見に訪れるという。

西を振り返ると、的矢湾内が一望できる。眼下には安乗漁港を守る防波堤があり、右手奥には鳥羽市の低い山並みが見える。安乗漁港で水揚げされる「あのりふぐ」は、遠州灘から熊野灘にかけて漁獲される700g以上の天然トラフグで、味が絶品なため関西方面や「ふぐの本場」下関にまで出荷されている。