半坪ビオトープの日記

尻屋崎灯台


尻屋崎の突端に立つのは白亜の尻屋崎灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。「日本の灯台の父」と称されるイギリス人のブラントンにより設計され、尻屋崎で焼かれたレンガを用いた二重のレンガ壁による複層構造の灯台であり、レンガ造りの灯台としては日本一の高さを誇る。国内最大級のレンズを使い、津軽海峡の道標となっている。

尻屋崎は昔から難破岬と呼ばれ、海洋交通の難所で海難事故も多く、船乗りたちから恐れられていた。明治9年(1876)に東北最初の灯台として初点灯し、翌年に日本初の霧鐘が設置され、明治12年に日本初の霧笛が設置され、明治34年(1901)に日本初の自家発電の電気式灯台となった。昭和20年(1945)米軍の攻撃を受け破壊、運用不能となるが、翌年の夏のある期間に、破壊されたはずの灯台が光を放つ怪現象が起こり「まぼろし灯台」と呼ばれた。 8月に霧信号舎屋上に仮設の灯火を点灯したところ、怪現象も消えた。昭和26年に灯台は復旧された。

岬の先端にも大きな岩が立ち並び、海の中にも岩礁が多くあることを窺わせる光景が見られる。

灯台の周りは芝生の園地になっており、無線塔の近くには、昭和51年(1976)の点灯100周年記念の石碑もあった。

尻屋崎は、本州の最北東端に位置するため、灯台の手前には「本州最涯地・尻屋崎」の石碑が建てられている。

最果ての地を見渡す岬の台地上に、鳴海要吉の歌碑がある。現黒石市出身の鳴海要吉(1883~1959)は、京都の青山霞村、金沢の西出朝風と並んで、口語歌運動の先駆者の一人として知られる歌人である。
「あきらめの旅ではあった 磯のさきの白い燈台に日が晄して居た」
下北半島・北海道での流浪の日々に思いを馳せて詠まれた歌で、出生地に近い黒石市御幸公園にも同じ歌碑がある。

灯台の右手の沖にも岩場が認められる。その周辺にも暗礁があって、船が座礁することが多かっただろうと推察できる。 

尻屋崎灯台から東の海岸沿いを南下すると間もなく、小さな岬の岩場を通り過ぎる。するとその南側の湾曲部にごろた石の岩浜があり、数台の軽トラが停まっていた。

波打ち際で海水に浸かりながら、波に乗って打ち寄せてくるコンブを引っ張り上げたり、集めたコンブを仕分けたりして10人近い人々が働いていた。

テレビでは船から竿で引き上げる本格的なコンブ漁をよく見かけるが、こういうコンブ拾い漁もあるのだとわかった。海の中に見え隠れする多くの岩礁にひっきりなしに波が打ち寄せている。

ぐるっと南に回り込んだ後、またもや広々とした牧場に出る。真っ黒な牛が揃って一方向を向いて寝そべっているのが面白い。

下北半島の東側を尻屋崎のある東通村から、原燃サイクル施設のある六ヶ所村、三沢米軍基地のある三沢市奥入瀬川が太平洋に注ぐおいらせ町へと、国道338号線を一路南下し始めたが、すぐ昼食時間になったので、東通村の中で「網もと」という海鮮食堂に立ち寄った。

うに丼が評判だというが、刺身・煮魚・うに玉とじ・小鉢3個など盛りだくさんの「網もと定食」を注文した。うに玉とじは、うにと玉ねぎを卵でとじたもので、うにの出汁がよく出ていて美味しかった。