半坪ビオトープの日記

志摩国分寺跡


横山から鵜方に戻り、なおも東に進んで安乗崎に向かうと、志摩市阿児町国府天台宗の護国山国分寺がある。この周辺一帯が、志摩国分寺跡に指定されている。

がっしりとした山門の正面に本堂が見渡せる。

天平13年(741)聖武天皇は国家鎮護のため、各国に国分寺国分尼寺の建立を命じた。全国に建てられた国分寺は68になるが、志摩国は下国で経済力に乏しかったため、国分寺の建立および維持には、伊勢・尾張三河各国からの補填によった。日本後紀によると、大同4年(809)には志摩国分寺・尼寺の僧尼たちは、伊勢国分寺に遷されてしまい、次第に衰退していった。応仁元年(1467)兵火により焼失したが、明応2年(1493)一堂を現在地に建てて本尊を安置した。

現在の国分寺の本堂は、7年かけて天保14年(1843)に落成した。間口3間、奥行5間、軒高33尺からなる入母屋造、向拝付妻入軒唐破風付で、屋根は本瓦葺である。

本尊の木造薬師如来坐像は、総高約2mある檜の寄木造の秘仏で、安濃津(現、津市)の仏師・法院定栄が永正4年(1507)に制作した。県の文化財に指定されていて、20年に一度開帳される。

本尊は秘仏だが、豪壮な組物が施された須弥壇には、多くの仏像が安置され、右手の壁にはなにやら彩色壁画も施されている。

外陣の天井板には彩色のついた天女の絵が描かれている。

こちらの天女も彩色が残っているけれども、二人の間の絵はほとんど輪郭がわからない。多分、龍だろうと思う。

「瑠璃殿」と浮き彫りされた扁額の下の欄間には、中国の故事にまつわると思われる精緻な彫刻が施されている。本堂再建の際、技芸に優れた十世義純和尚自らの手によるとされる。

このお堂は金比羅大権現を祀っている。扁額の下の龍の彫刻も手が込んでいる。ほかにも吒枳尼尊天や瀧上大明神が祀られているお堂もあった。