半坪ビオトープの日記

樫野埼、トルコ記念館


鯨の尾のような形をした陸繋島の潮岬の東側に紀伊大島が横たわり、串本本土とつなぐ串本大橋が平成11年に開通した。290mのアーチ橋と、苗我島に架かる386mのループ橋からなる。民謡「串本節」で知られる紀伊大島は、東西約8km、南北約2.5km、周囲約26kmで、島内にはウバメガシやシイ、ツバキなどが生い茂る。島の北西部には、平成14年に世界で初めて本マグロの完全養殖に成功した、近大水産研究所分室がある。

紀伊大島を東へ縦断して樫野埼灯台へ向かう途中、遊歩道「エルトゥールル通り」の右側にトルコ記念館が建っている。明治23年(1890)9月16日の夜、オスマン帝国皇帝の特使を乗せた軍艦エルトゥールル号は、東京からの帰路に樫野埼灯台近くで座礁し、587人の犠牲者を出した。地元大島の住民は遭難者に対して温かい対応をした。生存者は救助された人を含め69名。その悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まり、昭和49年(1974)に遭難現場近くに記念館が建てられた。記念館右手前には、日本赤十字社「平時国際活動発祥の地」記念のモニュメントが設置されている。

館内には、エルトゥールル号の模型や乗員の遺品のほか、トルコ政府との友好の資料や寄贈された品々などが展示されている。2階の展望台からはエルトゥールル号座礁した地点を確認することができる。

トルコ記念館の脇には、救助に当たった漁民の船などが展示されている。これは2015年11月に公開された「海難1890」の映画のセットで、映画は日本とトルコの友好125周年を記念して作られたという。

トルコ軍艦遭難の翌明治24年に、和歌山県知事ほか有志により墓碑と追悼碑が建立され、追悼祭が行われた。後に、昭和天皇の樫野埼行幸(昭4)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタテュルクが新しい慰霊碑を建立することを決定し、大島村民が746㎡の広場を提供し、昭和12年に立派な慰霊碑が除幕された。

ここでは長い間、串本町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。2008年に訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領は、トルコ大統領として初めて遭難慰霊碑を訪れ、追悼式典に参加した。また、事件から125年となった2015年には、トルコ海軍の軍艦が下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町でおこなわれた追悼式典にも参加した。

遭難慰霊碑の先、樫野埼灯台手前の広場には、「ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像」が勇姿を見せている。日本トルコ友好120周年を記念して、駐日トルコ共和国大使館より串本町に寄贈されたものである。

樫野埼灯台は、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で最初に設計し、明治3年(1870)に初点灯した日本最初の石造灯台である。日本最初の回転式閃光灯台でもあり、その初期の建物が現存している。

白亜の無人灯台で、灯台内部には入れないが、外部階段から灯台に付設した展望台に上がることができ、南紀の素晴らしい景観が一望できる。灯台の周囲には、明治初期に灯台技師のイギリス人が植えた水仙が群れ咲いている。潮岬と同じく、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4国と結んだ改税約書(江戸協約)に基づき国内に建設された8つの灯台の一つであり、観音埼や野島埼を含むこれらを条約灯台とも呼ぶ。

展望台から北を眺めると、右端には太地の梶取崎、熊野古道大辺路那智勝浦や熊野の山並みが見える。

よく見れば、那智の滝のすぐ奥の烏帽子山(910m)や雲取越えの大雲取山(966m)に連なる山並みが確認できる。

南西を眺めると、トルコ記念館やその先の海金剛が見える。海金剛は、高さ40mもの険しい断崖絶壁が連なる豪快な岩礁地帯で、近くの展望台からの光景は壮観そのものである。

トルコ記念館の右手には、エルトゥールル号が遭難したと思われる岩礁が集まって、豪快な波しぶきに囲まれている。