半坪ビオトープの日記

魚津ヶ崎、三井楽教会、辞本涯、渕ノ元墓碑群、貝津教会、大瀬崎

城岳展望台

魚津ヶ崎を目の前に眺める魚津ヶ崎公園から後ろを振り返ると、先ほどの標高216mの城岳展望台を眺めることができる。

魚津ヶ崎公園
今はキャンプ場としても利用されている、魚津ヶ崎(ぎょうがさき)公園のあるこの入江周辺は、古代には遣唐使船が最後の停泊地として、飲料水や食料の積込み、あるいは難波津からの長い航海で傷ついた船体の補修を行なったという。

立小島と姫島
その後、14世紀には宇久島から進出した宇久氏(後の五島氏)が支配し、対中国貿易の拠点として利用されたそうだ。園内には遣唐使寄泊の碑が建立され、春は菜の花、梅雨期は紫陽花、夏はひまわり、秋はコスモスが咲き誇る景観は見事で、海に沈む夕陽の美しい公園としても知られる。目の前には立小島が、その左手先には姫島が見える。

三井楽教会
福江島の北西部に大きく半島状に突き出して位置する三井楽町は、空海遣唐使ゆかりの地としても知られる。北端にある空海記念碑「辞本涯」の手前に三井楽教会が建っている。遣唐使船最後の寄港地・三井楽は、五島キリシタンの信仰を最も長く刻んだ地である。安永2年(1773)に大村藩から三井楽に移住してきた者たちは農業に従事し、冬の間は鯨加工の季節労働をして生計を立てていた。表面上は山の神などを祀りながら密かにキリスト教の信仰を守っていた。明治元年1968キリシタン迫害が三井楽に及ぶと棄教を拒んだ信徒たちは牢に繋がれて拷問を受けたが、一人の棄教者も死者も出さずに1ヶ月半で出牢できた。しかし、一部の信徒は牢に繋がれたままで、全員が放免されたのは3年後だった。明治13年(1880)に信徒たちは現在地に木造のゴシック様式の教会堂を建立した。昭和46年(1971)に老朽化した教会堂を建て替え完成し、現在に至る。三井楽教会のシンボルともいえる外壁のモザイク聖画は、諸聖人をテーマに色とりどりの陶器で描かれている。現在の堂内のステンドグラスは、三井楽出身の篤志家が出資し、地元のボランティアの奉仕により平成17年(2005)に完成したものである。

柏崎公園に辞本涯の碑
三井楽半島北端の柏崎公園に辞本涯の碑が立っている。ここ柏崎は、「肥前風土記」に「美弥良久の崎」として登場し、遣唐使船最後の寄港地といわれている。船の乗組員の飲料水や船舶用水に利用する井戸「ふぜん河」や遣唐使守護の任にあった者の霊を祀る「岩嶽神社」など遣唐使ゆかりの史跡が多く残る。江戸時代になると五島の捕鯨は最盛期を迎え、柏崎にも捕鯨団が移住してきて冬場だけを猟期として活躍したという。当時、「鯨一頭取れれば七浦潤う」といわれ、五島藩財政にも重要な資源だったが、乱獲により幕末には鯨組はほとんど解散したといわれる。組主だった生島仁左衛門が画工に描かせた「鯨絵巻」が史料として残る。柏崎灯台は、昭和31年(1956)に建てられ、五島の西方海上を航行する船の安全を守っている。沖に見える島は姫島である。

辞本涯の碑
日本最果ての地を去るという意味の「辞本涯の碑」は、遣唐使ゆかりの柏崎と第16遣唐使船(804年)で唐に渡った空海との深い関わりを知った有志の人達が空海像と共に建立した。辞本涯の言葉は、唐に渡った空海の書物に残されていた言葉であるという。しかし、文献上で最終寄港地の確かな記述はなく、「日本後紀」の「肥前国松浦郡田浦」の田浦は平戸の田の浦だとする説が強く、そこには巨大な入唐弘法大師像が建てられていて、4年前に私も訪れてみたことがある。多分、空海は柏崎沖を通るとき、日本最後の地を心に刻むため、辞本涯の言葉を記したのだろうと思われる。

渕ノ元カトリック墓碑群
柏崎から南西に少し進んだ淵ノ元の海岸に、渕ノ元カトリック墓碑群がある。渕ノ元郷の集落の歴史は古く、寛政年間(17891801)の五島藩政策による開拓農民移住に先駆けて、安永5年(1776)に外海の農民14家族78人が移住している。石積みの防風垣に囲まれた一角に、マリア像や十字架の墓石が並ぶ。海の向こうには200人ほどが暮らす嵯峨島が浮かぶ。嵯峨島にも潜伏キリシタンたちが住み着き、1888年に小聖堂が建てられ、1918年には木造の嵯峨島教会堂を完成させ、改修しながら今でも守り続けている。

渕ノ元カトリック墓碑群
渕ノ元は日本の夕陽百選にも選ばれた地でもあり、夕陽が落ちる時に浮かび上がる、渕ノ元カトリック墓碑群のマリア像や十字架のシルエットは、幻想的な美しさであると高く評価されている。

貝津教会
三井楽半島を回り終わって、県道384号線に合流する貝津郷に、貝津教会が建っている。貝津(かいつ)教会の歴史は、大村藩から三井楽の古田(ふった)や玉之浦町頓泊に移住した潜伏キリシタンが、その後竹山集落に再移住したことから始まる。明治初期、久賀島の迫害が三井楽にも及ぶと、貝津の信徒たちも代官屋敷で責苦を受け牢に入れられた。禁教の高札撤去から半世紀後の大正13年(1924)、素朴な木造の現教会が建立され、使徒ヨハネに捧げられた。昭和37年(1962)に老朽化のため増改築が行われ、三角屋根の小さな尖塔が付け加えられた。内部はカラフルなステンドグラスが特徴で、夕陽が落ち込む時間には、緑、青、赤、オレンジなどの色鮮やかな光が差し込み美しい。

大瀬崎
福江島の最西端に位置し、海抜80mの大瀬崎の断崖に建つ大瀬埼灯台は、九州本土で最も遅い時間に夕陽が沈む場所である。大きな灯台の光度は全国でも最大級の200カンデラで、約43km先まで照らす。「日本の灯台50選」に選ばれている。遣唐使派遣の初期、640年頃の唐書「挺地志」に「東海(渤海)の航路を照輝し、船舶は皆これを航行の標的とした」と書かれた、日本最初の灯台は、664年に遣唐使船のために、防人が昼は狼煙を上げ、夜は篝火を焚いたのが始まりという。

大瀬埼灯台
近代の大瀬埼灯台は、明治12年(1879)に竣工し、昭和46年(1971)に改装された。灯台の建つ大瀬崎の岩肌をよく見ると、横方向に縞模様が見える。「五島層群」と呼ばれる、約18001600万年前の地層で、そこの砂は中国の黄河などの砂と同じ組成である。その地層に縦の黒い岩脈(玄武岩の貫入岩)が見える。岩脈が何本も平行に入り、市の天然記念物になっている。

大瀬崎周辺
大瀬崎周辺は渡り鳥の渡の中継地でもあり、秋にはハチクマ、アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメ等、繁殖を終えた夏鳥が大陸へ渡っていくのを観察できる。灯台周辺の斜面には、絶滅危惧種に指定されているキキョウ科の「シマシャジン」が秋に薄紫色の花を咲かす。国内ではこの大瀬崎と平戸市南部にだけ自生し、海外でも韓国の済州島でしかみられない希少植物である。右手前方(西)に大瀬埼灯台があるが、左手(南東)を眺めても、人跡未踏の断崖絶壁が続いている。