五島の三日目は、主にこれより北、北魚目地域のキリスト教の教会と景勝地を巡る。まず初めに、ホテル近くの曽根教会を訪れる。旧聖堂は明治32年(1899)、フランス人宣教師アルベルト・ペルー神父の指導により、鉄川与助が20歳の頃初めて教会建築に関わった、北魚目長山に木造の聖堂が新築され、長崎司教アルポンソ・クザンにより祝別された。現在の聖堂は、昭和41年(1966)パウロ長崎大司教により祝別された。1987年に「無原罪の聖母像」が設置された。東に五島灘、西に東シナ海を一望する高台に建つ。
北魚目地区も、国の重要文化的景観「新上五島町北魚目の文化的景観」に選定されている。海辺に展開する漁業集落、立串・大瀬良・小瀬良・津和崎の4集落は、限られた土地に密集した集住形態が取られている。山間に展開する農業集落、江袋・仲知、大水・赤波江・竹谷・米山など8集落は、急勾配の斜面に石垣を築き、段々畑を造り、甘薯栽培中心の農業を行ない、散村形態をなし、垣根・屋敷林などの居住に関する景観地ともされる。まず、江袋教会を訪ねる。江袋教会は、明治15年(1882)パリ外国宣教会オーギュスト・ブレル神父指導のもと、外海・黒崎村の川原久米吉が棟梁を務め、江袋の信徒17戸とともに建築された。現存する木造教会の中で最古の蝙蝠天井の教会だったが、2007年に火災で焼損し、2010年にほぼ正確に復元された。この村から五島最初の神父になった島田喜藏師の司祭叙階を祝福、記念して建立したと伝えられている。
明治の創建時には蝙蝠天井がまだできておらず、外壁板張りもなく土壁が見えていた。大正時代までに外壁や天井などが整備され、現在に近い姿となった。修復工事では大正末期の姿に復元したが、外部の色は少し明るくした。向かって左手にキリスト像が建てられている。
さらに2kmほど北に仲知教会がある。仲知(ちゅうち)教会は、明治15年(1882)江袋に現在の青銅が設立され、それまで主任教会となっていたが、昭和7年(1932)主任座が仲知に移された。現在の仲知教会は、昭和53年(1978)建立、献堂された。仲知(島ノ首)への移住開始は1810年頃、西彼杵・黒崎村から。その後、真浦、久志、大水、赤波江と続く。三代目の現在の仲知教会の新築には各戸百数十万円の拠出と労力奉仕がなされ、里脇大司教による祝別、落成の日を迎えた。わずか70数戸で築き上げられた教会堂内部は、鮮やかなステンドグラスに彩られ、信仰者の偉業への驚きと感動の念で満たされる。ステンドグラスには聖書の場面が施され、イエスが漁師を弟子とする場面では、当時教会建設に関わった信者も登場しているという。
教会堂の裏手には、雲に乗ったマリア像とそれを見上げる羊飼いたちの「ファチマの聖母と羊飼い」の珍しい場面が再現されている。
漁業者の信徒が多い。明治36年(1903)に建立された最初の聖堂は、山頂付近だったため、狭い山道を歩いた。その後老朽化が激しくなり、海岸近くに居を構える信徒が相次いだため、現在の聖堂は昭和52年(1977)集落中央部に建立され、献堂式が行われた。特徴的な形の白い外観が青空に映える。この教会からは、教会建築の第一人者・鉄川与助初のレンガ造りである、野首天主堂がある野崎島を見ることができる。
玄関前左手には、この教会の保護者である聖アンドレアの像が立っている。聖アンドレアはイエスに付いて行った漁師。米山教会の信徒には漁師が多いため保護者になったと思われる。
灯台への階段の脇にはいくつかの花が咲いている。これはスイカズラ(Lonicera japonica)。吸葛(すいかずら)という和名は、子供らが花の甘い蜜を吸っていたことから名付けられたという。別名、忍冬(にんどう)。冬場を耐え忍ぶ意。日本各地の山野に普通に生える。茎はよく分枝し、枝先の葉腋に2個ずつ花が咲く。花冠は筒形で唇状に大きく2裂し、上弁は4裂し、下弁は線形。はじめ白色でのちに黄色になる。そのため、金銀花(キンギンカ)ともいう。