半坪ビオトープの日記

五島列島、久賀島、牢屋之窄記念教会、旧五輪教会堂

五島列島福江港

6月初旬に、かねてから待望の五島列島を旅した。羽田を6時過ぎに飛び立ち、福岡で乗り継ぎ、10時過ぎには福江空港に着いた。早速、福江港ターミナルの遊麺屋(ゆめや)にて、五島名物の五島うどんを使った「あごだしちゃんぽん」を食す。具材は、板カンボコ、揚げカンボコ、チクワ、イカゲソ、豚肉、キャベツ、タマネギなど。あごだしスープが特に美味しい。

無人島の屋根尾島
昼食後、グラスボート「シーガル」で久賀(ひさか)島に向かう。福江港を出てすぐに左に見えるこの島は、無人島の屋根尾島。造礁サンゴやソフトコーラルの群生などが美しく、福江海中公園に指定されている。大型の台風2号の接近で雲が多い。

無人島の多々良島
次に右手に見えるのは、無人島の多々良島。約10年前に、世界最大級のオオスリバチサンゴがこの多々良島の沖合で発見された。直径16mで、推定年齢1,000歳というから驚きだ。

久賀島の田ノ浦港
20分で久賀島の田ノ浦港に着く。その手前、右手に「浜脇教会」の緑の尖塔が認められた。五島列島には51の教会があり、その約半数をこれから訪れることになる。

浜脇教会
戦国時代に日本に伝わったキリスト教の布教時代に始まり、禁教令による弾圧から潜伏の時代、復活の時代と、五島列島も長崎や天草同様大きな歴史的変遷を遂げている。この浜脇教会も久賀島を離れる直前に立ち寄る予定だ。久賀島の住民は現在約300人である。

牢屋の窄記念教会
2018年7月にユネスコ世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」12のうちに五島列島の4つの集落が含まれている。その一つ「久賀島の集落」は、共同体を維持するために、五島藩の政策に従って島の未開拓地に移住して信仰を続けた集落である。幕末から明治にかけてキリシタン弾圧の厳しさは増していき、1868年には「五島崩れ(牢屋の窄弾圧事件)」と呼ばれる厳しい弾圧が行われ多くの死者を出した。その殉教地にこの「牢屋の窄記念教会」が建てられている。詳しくは帰りがけにもう一度訪れることにして先に進む。

奈留瀬戸
久賀島世界遺産のメインである旧五輪教会堂へは、田ノ浦港から車で40分の車両進入禁止の看板から徒歩10分と久賀島を縦断し、細い道を進む。林の中の道を抜けるとエメラルドグリーンの美しい海が広がっている。奈留瀬戸という。海の向こうに見えるのは奈留島である。手前の大きなシダの群落もとても美しい。シダの仲間は同定が難しいが、大きさから見て多分、フモトシダ(Microlepia marginata)であろう。

陸の孤島、五輪集落
右手に進むと五輪漁港と新旧の五輪教会堂を含む五輪集落が見えてくる。この五輪地区は久賀島のなかでいまだに直接車で行くことができない陸の孤島である。ツアーでは福江島から海上タクシーなどの船で向かうようだ。
 

新旧の五輪教会堂
 
静かな海岸には瓦葺きで木造の旧五輪教会堂と、オレンジ色のモダンな外観の五輪教会堂が並んで建っている。旧五輪教会堂は老朽化のためすぐそばに五輪教会が新築されたが、解体の危機を乗り越え貴重な文化財として保存されることになった。信徒は五輪地区と蕨小島の人々だが、過疎化が激しく極めて僅かだという。

旧五輪教会堂
久賀島で明治14年(1881)に初めて建てられた初代浜脇教会堂は、浜脇教会の建て替えを機に、久賀島の東端にある五輪集落に昭和6年(1931)に移築され、旧五輪教会堂として現存している。長崎県にある教会堂としては大浦天主堂に次ぐ古さを持つ木造教会である。建物は創建時の形態を伝えているが、移築の際に正面玄関が付加され、祭壇背後の下屋も拡張されたそうだ。木造で、腰部を下見板張り、上部を漆喰壁とする。桟瓦葺の屋根は正面を切妻造、背面上部を八角状の寄棟造とする。窓がポインテッドアーチ型である点を除けば、外観は一見全くの和風建築である。建築は旧久賀村田ノ浦出身の大工である平山亀吉という。

主祭壇、幼子イエスを抱く聖ヨゼフ
旧五輪教会堂の内部は三廊式、板張りのリブ・ヴォールト天井による空間構成、ゴシック風祭壇など、本格的な教会建築様式となっている。正面の主祭壇の像は、幼子イエスを抱く聖ヨゼフである。なお、世界文化遺産エリア内の教会見学は、時間の事前連絡が必要である。原則は写真撮影禁止だが、この旧五輪教会堂は事前連絡すれば撮影可となる。

右手の脇祭壇、幼子イエスを抱くマリア
旧五輪教会堂は、明治初期の貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されている。右手の脇祭壇の像は、幼子イエスを抱くマリアである。

左手の脇祭壇、イエス・キリスト

左手の脇祭壇の像は、イエス・キリストである。

十字架を背負うイエス
側廊の柱脇には、「十字架を背負うイエス」などの絵がいくつも掲げられている。