久賀島は馬の蹄のような独特な形をし、島の中心には山々に囲まれるように久賀湾が広がる。島の北東部にある折紙展望台は、島民がコツコツと手作りした展望台で、その功績が称えられ、2006年に国土交通大臣表彰の「手づくり郷土賞」を受賞した。
東をよく眺めると、蕨小島に囲まれた蕨魚港が見下ろせ、その彼方には奈留瀬戸を挟んで奈留島が横に広がっている。蕨小島は周囲1.8km、面積0.03k㎡と、全国で最小の有人島である。人口は一桁で、全員が小島姓でカトリック信者である。ハマチ養殖を共同で営んでいる。
折紙展望台から西を眺めると久賀湾の出口がようやく認められた。その彼方は朝鮮半島になるが、残念ながらその姿は見えなかった。
旧五輪教会に向かう時にちょっと寄った「牢屋の窄記念教会」に、帰りがけにも立ち寄った。「五島崩れ(牢屋の窄弾圧事件)」から100年たった1969年、記念聖堂を建立し、1984年に牢屋の窄弾圧事件のあったこの地に移転の上、聖堂を新築した。
聖堂内部は、中央部12畳分が灰色の絨毯で色分けされている。これは明治元年に自らの信仰を告白した久賀島のキリシタンへの迫害で、約200名の信徒たちが8ヶ月もの間押し込められた牢屋の広さが一目でわかるようになっていて、彼らの苦しみを雄弁に物語っている。畳一枚あたり17人という狭さで、横になることもできず、排泄もその場でしなければならず、死体も放置されるという想像を絶する惨状だった。連日の拷問で39名の死者、出牢後の死者3名を加え42名の迫害死者という、凄惨な弾圧があった。その状況は外国使節団の知るところとなり、明治新政府の外交問題に発展し、ついに太政官布告によって、明治6年キリシタン禁制の高札が下ろされ、信者達は信仰の自由を勝ち取った。
牢屋の跡には記念碑が建てられ、毎年10月の最終日曜日には「牢屋の窄殉教祭」が行われている。
広場の正面の塔には「信仰之碑」が建てられ、入牢させられたキリシタンたち190人の名前と年齢が刻まれている。その手前には43名の墓碑が建てられている。
台風に見舞われることの多い久賀島の稲作は、ほとんど早期栽培であり、春先には田植えが、盆前には稲刈りが行われる。内幸泊の棚田やここ大開の水田など、島の中央に広がる水田地帯は周りの緑豊かな山々に囲まれ、久賀島ならではの自然風景、文化的景観を見せている。
田浦港近くの浜脇教会の手前に久賀島潜伏キリシタン資料館がある。館内の展示室には島の信者宅で保管されてきたマリア観音や十字架、慶応4年のキリシタン高札、古伊万里のキリシタン皿、細石流教会の遺物など約100点が展示されている。その近くでシダの葉に止まるきれいな蝶を見かけた。メスグロヒョウモン(Damora sagana)のオスである。和名通りメスは黒っぽく光沢のある青緑色を帯び、オオイチモンジに近い体色である。雌雄で極端に体色が異なり、蝶類の中でも特異な性的二形を持つ。一方、オスは典型的なヒョウモンチョウ類の体色で、ミドリヒョウモンによく似る。
田浦港手前に浜脇教会が建っている。慶応2年(1866)頃、歴史的な長崎の信徒発見やプティジャン司教の情報が入ってきた。久賀島では禁教政策が続く中、自らキリシタンであることを公言する信徒が続出し、久賀島牢屋の窄殉教事件が起こった。キリシタン解禁後の1881年(明治14年)、島内で最初の教会堂(初代浜脇教会堂)がこの場所に建てられ、潜伏キリシタンの文化的伝統が終わりを迎えた。1931年、隣接地に現在の五島初の鉄筋コンクリート造の教会堂が建てられ、初代教会堂は五輪集落へ移築された。重層屋根構成瓦葺きで、正面に高く聳える鐘塔とその上の八角形の尖塔が特徴的である。堂内平面は三廊式で、正面には主祭壇及び脇祭壇を設けている。天井はリブ・ヴォールト天井塗り仕上げで、列柱にはコリント式オーダーを刻する柱頭を持つ。