半坪ビオトープの日記

矢堅目、大曽・猪ノ浦・鯛ノ浦・浜串教会

矢堅目
奈摩湾の入口に位置する矢堅目は、円錐形の奇岩がよく目立ち、平戸から五島の西目の海上航路の目標になっている。この地は古くから奈摩湾に侵入する外敵の見張りのために、矢(守備兵)で堅(砦)めたことから「矢堅目」の地名が残されている。室町時代勘合貿易船(日明貿易)の停泊(避難)港としても知られ、松浦党の一員として青方・奈摩両氏の間では、勘合船の海賊からの警備の任務が課せられていた。標高は約120mの陸繋島、近年、トトロ岩とも呼ばれる。手前の柵越しに見える白い花は、セリ科のボタンボウフウ(Peucedanum japonicum)。高さが50100cmの多年草。葉がボタンに似る。花期は6〜9月。赤紫色の花は、津和崎でも見かけたノアザミ

赤ダキ断崖
先ほど見た赤ダキ断崖は、対岸から見た方が2層の違いがはっきりとわかる。つまり、下層部は黄〜黄色の火山礫凝灰岩層であり、上層部は赤色の岩滓層で多量の火山弾を含む。

テリハノイバラ
矢堅目に咲いていたこのバラは、テリハノイバラ(Rosa wichuraiana)という落葉低木。日当たりのよい山野、川原、海岸などに生える。本州以南、沖縄、台湾にも分布する。ノイバラによく似るが、花が3cmと大きく、葉に光沢があるなどで区別できる。

客人神社
奈摩湾に沿って南に戻る途中で、海側ではなく奈摩集落側を向く、客人(まろうど)神社を見かけた。創立は不詳だが、旧記には寛政の頃にはすでに創立が記載され、文政11年(1828)に社殿を改築。境内神社の八坂神社が素戔男大神を祀るのは、弘化年間より痘瘡が大流行したので、嘉永2年(1849)に悪疫を除くため勧請したという。秋の例大祭では上五島神楽が舞われる。

大曽教会
青方郷の西部、青方港桟橋対岸の高台に建つのは、大曽教会。江戸末期に大村藩の外海から移住してきた潜伏キリシタンの人々が明治12年(1879)に、今は若松島に移築され土井ノ浦教会となっている最初の教会堂を建立。現在の教会堂は大正5年(1916)にコンバス司教により祝別・献堂されたもので、設計・施工は地元出身の鉄川与助。桟瓦葺きの重層屋根で、レンガの組み方や色の違いで装飾されたレンガ造りの外壁が美しい。正面玄関部は八角形のドーム状の鐘楼となっており、内部は3廊式で、天井は漆喰塗りのリブ・ヴォールト天井。西ドイツ製の花柄のステンドグラス、半円のアーチ窓など、ロマネスク様式を取り入れており、柱頭の彫刻は与助の父・鉄川与四郎の作。鎧戸や聖体拝領台など当時のまま残っていて、県の有形文化財に指定されている。玄関前には大きなキリスト像が立っている。

猪ノ浦教会
青方港のある青方湾には今里浦、浜ノ浦湾、猪ノ浦などの入江が続くが、外洋から見えない細長い猪ノ浦の最奥に、猪ノ浦教会が建っている。猪ノ浦は近世紀より塩釜があったが、明治維新とともに廃釜となった。明治の中頃にはカトリック信徒の移住が始まり、信徒は大曽教会へ櫓船で参詣していたが、昭和22年(1947)に聖堂を建設した。平成元年(1989)に新聖堂が完成し、里脇枢機卿により祝別・献堂された。信徒全員漁業で生計を立てている。五島3日目は青方に泊まった。

鯛ノ浦教会
翌日は中通島の南半分を教会巡りする。まずは有川港から南下し、鯛ノ浦教会を訪れる。鯛ノ浦の集落は、寛政9年(1797)に外海の出津(そとめのしつ)から移住してきたキリシタンの子孫が住み、明治3年(1870)鯛ノ浦六人斬りという殉教事件が起きるなど迫害を受けた。明治13年(1880)パリ外国宣教会のブレル神父により、現在の「希望の灯学園」の前身である養育院が建てられた。翌年、旧鯛ノ浦教会堂が建立され、明治36年(1903)旧聖堂がアルフォンス・クザン司教により祝別された。この現聖堂は昭和54年(1979)里脇大司教により献堂された。聖堂入口手前には、守護者・聖家族像が安置されている。

旧鯛ノ浦教会
鯛ノ浦教会の左手奥にある旧鯛ノ浦教会の聖堂は、木造、単層屋根構造桟瓦葺き、外壁は下見板張りで、正面には戦後増築されたレンガ造の四角の鐘塔をもつ。この鐘塔は、1949年の増築の際、一部に長崎市浦上天主堂被爆レンガが使用された。内部は3廊式、天井は4分割漆喰塗りのリブ・ヴォールト天井である。現在は資料館になっている。

森松次郎翁顕徳の碑、中田秀和画伯の像、ヨハネ五島草庵殉教の碑、ブレル神父海難殉教の碑
教会の右手にある広いルルドの右手前には、教会関係者の銅像・胸像が並んでいる。右から、森松次郎翁顕徳の碑、中田秀和画伯の像、ヨハネ五島草庵殉教の碑、ブレル神父海難殉教の碑。その左奥に尖った鷹巣キリシタン殉教の碑がある。大村の外海キリシタン頭目・森松次郎は、「外道征伐」の張本人・渡辺昇が大村藩大目付になるや奇襲討伐を企てたのを聞きつけ、大難を避けて西海沖の上五島へ避走し、7年間の伝道の結果、慶応3年(1867)プチジャン司教の代理・クザン師を五島に二回も迎えた。明治42年(1909有川町に生まれた中田秀和画伯は、高山右近」と「ガラシャ夫人」の名画、山口市の聖ザビエル記念聖堂や浦上天主堂の大壁画、鯛ノ浦教会のルルドの制作などの偉業を達成した。太閣秀吉の逆鱗に触れ、長崎への殉教の旅の後、慶長2年(1597)に処刑された日本26聖人殉教の悲劇の中に、五島出身のヨハネ五島草庵が含まれていた。明治13年(1880上五島地区主座教会鯛之浦教会の初代主任司祭として赴任された
ブレル神父は、明治18年(1885)、長崎外海の出津の会議からの帰途、五島に戻る途中で遭難し、救助に駆けつけた地元民から略奪目的で殺害され帰天された。鷹巣キリシタン殉教とは、明治3年(1870)に鷹巣キリシタン6名が有川郷士の4人組に刀で斬殺された殉教事件のことである。

浜串教会
有川から奈良尾へ南下する県道から海辺に下って、岩瀬浦郷にある浜教会を訪れる。
徳川幕府による迫害が強かった文化12年(1815)頃、外海の樫山地区から小舟で海を渡った信者が当地に隠れ住んだ。幕末から漁業集団「十字船団」を組み、漁業に勤しんできた。明治になり、パリ外国宣教会マルマン神父の努力によってキリシタンに復帰した。鯨捕獲の利益をもって、明治32年(1899)ヒョウゼ師のとき、「クジラの御堂」と呼ばれた初代の教会を建立、献堂した。その後老朽化したことから、昭和42年(1967)松本師のとき海の近くに敷地を求め、新聖堂を建立、献堂した。聖堂の前には白亜のイエス像が両手を広げている。

希望の聖母像
浜串港入口には昭和29年(1954)に「希望の聖母像」が建てられ、平成8年(1996)に建て替えられた。海に向かって立つ聖母は、航海の安全を祈りつつ、出船・入船を見守っている。