さらに南下し、奈良尾港に近づくと、岩瀬浦郷に福見教会がある。この地にキリシタンが初めて移住したのは寛政11年(1799)。5人の男女が外海から迫害を逃れて移住した。最初の教会が建てられたのは明治15年(1882)だが、2年後には台風で崩壊した。パリ外国宣教会ヒュウゼ師により大正2年(1913)現在の聖堂が献堂された。外部は屋根を除く全部がレンガ造りで、重層屋根構成、桟瓦葺き。左右にステンドグラスが張られ、レンガ造りの天主堂としては珍しく、日本的な格組折上天井を有する。内部は3廊式だが、改築された内陣部の天井は平天井である。上五島地区で3つある赤レンガ造りの教会の一つである。高さ4m、長さ32mの海岸の丸石で積み上げられた石垣の上に建っている。近くには標高308mの遠見番岳があり、異国船監視のため正保4年(1647)に番所が設けられた。山頂には狼煙が焚かれた竈門の跡が残る。
さらに少し進むと高井旅海水浴場を見下ろす高台に、高井旅教会が建っている。徳川幕府の迫害から逃れ、寛政年間(1850頃)外海の樫山地区から移り隠れ住んだのは、田崎、森、岩谷の三家とされる。昭和14年(1939)山口福太郎神父の尽力により約100名が集団で洗礼を受けてカトリックへ復帰した。昭和36年(1961)念願の聖堂が建立され、山口司教により祝別・献堂された。白壁に赤い屋根が美しい。
最後に中通島の西にある若松島に渡る。若松瀬戸に架かる若松大橋は、平成3年(1991)に完成した全長522mの三径間連続トラス橋。ただし中通島と若松島を公共交通機関で移動することはできない。若松瀬戸に現れる渦潮や中通島の山並み、入江など自然豊かな風景が目の前に展開する。若松島は古くは「西島」「貝俣島」「狩俣島」と呼ばれていた。福江藩時代の安永元年(1772)に大村藩の外海地区からキリシタン16戸70名が移住し、現在も北部の大平教会、南部の土井ノ浦教会がある他、明治期の迫害の際に信徒が隠れ住んだ「キリシタン洞窟」が若松島の南岸に残る。
若松大橋から北を眺めると、眼下の入江がエメラルドグリーンに輝いて美しい。
(1892)に仮の教会が建てられ、その後、大曽教会が大正4年(1915)にレンガ造りの教会を新築したので、木造の旧大曽教会を買い受けて、大正7年(1918)に移築完成した。現在の姿は、昭和35年(1960)および平成9年(1997)に大改築が行われ近代的に見えるが、内部を見ると木造建築の初期の教会様式が窺える。慶長年間(1596-1614)、
土井ノ浦の隣の神部集落に山田九郎右衛門を首領とする180戸のキリシタンがいたが、島原の乱に全員が従軍したまま誰も帰らなかったという。その後の迫害で五島の信者は消滅してしまうが、若松島も例外ではなく、現在の信徒の先祖は、その後の、大村藩からの移住者であるという。教会隣の「カリスト記念館」には、キリシタン弾圧の時代を乗り越えてきた貴重な資料(オラショの写しやメダイ、マリア観音像など)が展示されている。
土井ノ浦教会の脇にカリスト殉教顕彰碑がある。カリストは、五島で27年間、若松を拠点に伝導したキリシタンの父、教師と慕われた人物。寛永元年(1624)五島藩主・二十二代盛利は、キリシタン弾圧を誇示するため、若松から一里ほど離れたタブトでカリストを処刑したという。
土井ノ浦教会の花壇で見かけたこの風変わりな花は、ガガイモ科のフウセントウワタ(Gomphocarpus fruticosus)という一年草。原産地はアフリカ南部。開花期は6〜9月で、果実期は8〜10月。草丈は1m前後。ハリセンボンのような棘のある緑色の果実がユニークな観賞用植物である。
若松大橋ができた平成3年(1991)以前は、「離島の中の離島」と呼ばれていた若松島には飲食店や土産物屋は極めて少ない。そんな若松島の北西端には、漁生浦島(りょうぜがうらしま)、有福島、日島の三つの島が昭和54年(1979)に開通した橋で繋がっている。その最北端の島が日島で、その南岸の曲地区に日島の石塔群がある。中世から近世にかけての古墳群で、70基以上の石塔が累々と並ぶ風景は圧巻である。同島の釜崎地区の丘の上には正平22年(南朝暦・1367)の銘が刻まれた高さ約2mの宝篋印塔が一基存在する。
関西方面の御影石や福井県の若狭方面の日引石など島外から持ち込まれた石材が多く使われている。大陸との交易品を運んだ帰りの船にバラスト(船の重し)として持ち帰ったと言われており、都や大陸と往来した海上交易の拠点であったことを物語る史跡である。古文書上では石塔群の建塔の背景は不明だが、民俗学的にも極めて貴重な遺跡とされる。新上五島町教育委員会による「日島沖難破唐船の故事」は以下の通り。永仁6年(1298)、北条得宗家一門の「御物」や貿易品を満載し、鎌倉を出帆した唐船が、有福島の宮ノ瀬戸を通過後、日島沖で難破した。その時、日島や周辺の住民は難破船から御物や貿易品を取得した。それに対して幕府は鎌倉から使者を派遣し調査した。調査後、鎮西探題・金沢実政は「御物を御使方へ引き渡せ」と命令したが、引き渡しは思うようにいかなかった。そのことが「青方文書」にも残されており、この日島が中国大陸に渡る最後の重要拠点として鎌倉や京都と緊密に繋がっていた、象徴的な出来事とされる。