半坪ビオトープの日記

奥浦湾、堂崎教会、福江城跡

奥浦湾
五島最終日は福江島を大急ぎで一周し、五島におけるキリスト教復活の拠点とされる堂崎教会へ行く時間が取れた。福江港から北へ、久賀島に面した堂崎教会には、手前に設けられた観光客用の駐車場から奥浦湾に沿って歩いて進む。すると、引き潮で干上がった海辺に、複雑怪奇な岩が積み重なる不思議な光景に出会った。丸い小山は、前小島という。

干潮の奥浦湾
福江島の海岸地帯には特徴的な地質が現れるジオサイトが幾つもある。西の大瀬崎、北の魚津ヶ崎は訪れたが、他にも南の鎧瀬溶岩海岸や各地の白浜海岸など合わせて20ヶ所以上ある。前小島付近の岩石群とは別に、手前には丸い岩などがゴロゴロ、ゴツゴツと砂地の上に顔を出している。満潮になれば水の中に沈んで見えなくなりそうだ。

干潮の奥浦湾
五島列島の大部分の地質は、五島層群と呼ばれる新第三紀中新世に堆積した砂岩、泥岩、及び安山岩質凝灰岩などで構成されている。その基盤層に花崗岩玄武岩が岩脈として貫入している。福江島玄武岩の噴火活動時期は洪積世〜沖積世である。地形分類図によると、この奥浦湾周辺は、小起伏山地から大起伏丘陵地の境界付近であり、地質図によると奥浦層と五島花崗岩類との境界付近である。小島の方には平べったく割れた石が積み重なっている。

堂崎のリンゴ石
手前の丸い二つの石は、花崗岩が球状に風化したもので、「堂崎のリンゴ石」という呼び名もあるという。1500万年ほど前にできた福江島最大級の花崗岩類の塊(岩床)が、奥浦の平蔵付近から樫ノ浦、堂崎を通って久賀島南岸に達しているそうで、堂崎湾内では小島の角石が風化して円形になったようだ。形もそうだが、色違いの層状に地層が重なっているように見えるのが珍しい。堂崎教会を訪れる時には、ぜひとも干潮時間帯に合わせて「堂崎のリンゴ石」を見ることを推奨する。

堂崎教会=堂崎天主堂
堂崎教会=堂崎天主堂は、明治初期にキリシタン迫害が行われた五島市奥浦地区の海岸沿いに建つ教会である。五島列島で最初に建てられた福江島を代表する天主堂で、日本二十六聖人の一人で五島出身のヨハネ五島に捧げられた記念聖堂でもある。

堂崎教会
禁教令が解かれた後、五島キリシタン復興の任を帯びて、フランス人宣教師・フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって五島における最初の天主堂(木造)が建てられた。その後着任したペルー神父によって1908年に、現在のレンガ造りの教会堂が完成した。

堂崎教会内部
建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれ、内部は木造で色ガラス窓、コウモリ天井などの教会堂建築となっている。現在は、弾圧の歴史や資料展示する資料館として一般公開されている。

マルマン神父とペルー神父の銅像
天主堂の正面向かいには、マルマン神父とペルー神父の銅像が建っている。座って両脇に小さな子供を抱いているのが初代主任司祭・マルマン神父である。右に立っているのが2代目主任司祭・ペルー神父である。

石田城(福江城)跡
堂崎教会から福江の町に戻り、城下町の名残を少しだけ垣間見る。幕末に建てられた石田城(福江城)も見事な石垣が印象的である。五島家第30代当主・盛成により、黒船の来航に備えて1863年に建てられた日本最後の城は、わずか9年後に明治政府により解体された。現在は本丸跡に五島高校が建てられ、北の一角には城山神社がある。この小さな門は南西の城壁に設けられたもの。

武家屋敷通りの石垣

江戸時代、五島藩の城下町として栄えた福江の町中には、石田城跡や溶岩塊の石垣など風情ある景観があちこちに残っている。特に約400mにわたって続く武家屋敷通りの石垣は圧巻である。

これで6月初旬、4泊5日の五島列島の旅を終える。遣唐使からキリシタンと教会、そして西海国立公園認定、潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産になるなど、観光で賑わう現在まで、五島列島の歴史は奥深い。とりわけ五島列島にはキリスト教の教会が51ヶ所も残っている。そのうちおよそ30ヶ所を大急ぎで巡ってきたが、世界遺産に登録された野島崎の集落跡に残る旧野首教会は日程不足で残念ながら断念した。壮絶な迫害・弾圧に耐えて命懸けで信仰を守った五島列島の信徒たちの信仰心には尊敬の念を抱くとともに、秀吉から徳川幕府へと続く禁教政策の理不尽さに憤りを感じざるを得なかった。