新上五島町は若松島と中通島と周囲の島からなるが、中心の中通島は、南北に細長く十字架の形に近い。その十字の部分が中通島の中心部で、西に青方、東に有川の港がある。青方は博多から来て福江に向かう寄港地、有川は佐世保や長崎から来る寄港地である。その有川には捕鯨で栄えた有川の象徴でもある鯨賓館があるが、その東(右手)に風変わりな海童神社がある。ナガスクジラの顎の骨でできた鳥居が有名。鳥居の高さは4.45m、昭和48年(1973)東シナ海で捕獲された体長18.2mのナガスクジラの顎骨が使われている。平成14年頃までは海に囲まれた小島にあったが、有川港ターミナルが新築される際、周囲が埋め立てられ陸続きになった。
石段を登っていくと頂上付近に石の祠があり、恵比寿(左)と龍神(中央)も祀られている。1620年に海難防止を祈願して龍神を祀ったことが始まりで、昔は拝殿があったようだが、明治24年に祖母君(うばぎみ)神社に合祀され、その後、祖母君神社・天満神社・八幡神社が合祀されて有川神社となり、現在、海童神は有川神社の祭神の一つとして祀られている。
有川から東に進むと、国の重要文化的景観「新上五島町崎浦の五島石集落景観」に選定されている崎浦地区に入る。赤尾・友住・頭ヶ島・江ノ浜の4集落からなり、幕末以降、海岸に露出する砂岩の五島石を採石し、石材業を発展させた。平戸市や長崎市にも流通し、この崎浦地区では石畳、石臼、家屋の腰板石、神社の鳥居など石材品が溢れている。崎浦地区を進み、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」である「頭ヶ島(かしらがしま)の集落」にある頭ヶ島天主堂に着く。江戸時代末まで無人島であった頭ヶ島の開拓は、安政5年(1858)に久賀島出身の仏教徒・前田義太夫が代官の許可を得て開拓したことに始まる。翌年、大村藩の外海出身者のキリシタンが移住を始め前田と協力して開拓を進めた。慶応3年(1867)にキリシタンの指導的存在だったドミンゴ松次郎が頭ヶ島に移り、長崎からクザン神父を招き自宅を兼ねた仮聖堂でミサを行った。しかし、明治に入り五島崩れという捕縛が起き、頭ヶ島のキリシタンも捕えられ、島民全員が一時脱出した。解禁後は徐々に信徒が島に戻り、教会組織が設立されて木造教会が建てられた。
さらに明治43年(1910)に鉄川与助の設計施工により、砂岩を切り出し信者が運ぶ建設が始まり、大正8年(1919)にコンバス司教により祝別され、石造りの天主堂が完成した。正式の名は聖ヨゼフ教会堂である。鯛ノ浦教会の巡回教会で司祭はいない。天主堂の内部は船底のような折上天井で、ハンマービーム工法が特徴。随所に白ツバキをモチーフにした花柄模様があしらわれ、「花の御堂」の愛称もある。ロマネスク調の珍しい石造で重厚な外観を持ち、平面は単廊式、華やいだ内部が特徴的な教会として国の重要文化財に指定されている。
天主堂の右手(東)には、石のアーチに囲まれて聖母マリア像が祈りを捧げている。周りの石垣は、天主堂と同じく五島石で造られている。この砂岩は、1500万年前に堆積したもので、当時のアジア大陸縁辺部に位置し、黄河が日本海に流れ込む末端のデルタ部分だったと推定されている。頭ヶ島集落には至る所でこの砂岩が使われ、独特な集落景観を作り出している。
天主堂の右手の石垣の上に、キリシタン拷問五六石之塔と、ブレル師同伴信徒殉教者記念之塔がある。キリシタン拷問五六石之塔は、棄教を迫る「算木責め」という拷問の残酷さを今に伝えるもので、角材の上に正座させ、太ももの上に石を乗せる凄惨な拷問である。その重石に使われた石を組んだモニュメント。ブレル神父は1885年、長崎外海の出津の会議からの帰途、五島に戻る途中で遭難し、救助に駆けつけた地元民から略奪目的で殺害され帰天された。神父を含め計13名の姓名・聖名・出身地・年齢が記されている。この後訪れる鯛ノ浦教会に墓碑があるそうだ。
天主堂のある白浜地区の海岸の東側一角に頭ヶ島教会の共同墓地がある。頭頂に十字架を頂いた50基余の墓石が並んでいる。この教会墓地は、明治38年(1905)に祝別されたことが中心十字架から知られる。明治20年代の墓が最古のようだが、玉石を並べただけの配石墓から伏碑、立碑あるいは近年の家族墓など形態は様々である。この白浜海岸の砂丘から昭和42年に縄文人骨が多数出土し、白浜遺跡と呼ばれている。他にも打製・磨製の石斧や曽畑式・轟式・並木式・阿高式・南福寺式・富江式の土器片が出土し、縄文前期(約6000年前)〜晩期(2500年前)に縄文人が居住していたことがわかっている。なお、古墳時代の遺物・須恵器も出土している。