半坪ビオトープの日記

奈留島、奈留教会・江上天主堂、中通島、中ノ浦教会・真手ノ浦教会

福江港、常灯鼻
福江港に面したホテルから、目の前に常灯鼻が見える。第30代領主・五島盛成公が石田城(福江城)を築くにあたり、北東からの波を防ぐため弘化3年(1846)に建造された。当時は防波堤としてだけでなく灯台の役目も担っていた。

屋根尾島
二日目は奈留島に寄ってから中通島に渡る。福江港を出てすぐ左手に見えてくるのは屋根尾島。その右手奥には多々良島が見える。どちらも無人島だ。

久賀島
やがて左手に大きな島が見えてくる。昨日訪れた久賀島だ。

左が前島のトンボロ、右が末津島
奈留島に近づくと、左手に前島のトンボロが見えてくる。左が前島のトンボロ、右の末津島と繋がっている。間に見えるのは奈留島の南にある椛島やツブラ島だ。

奈留島、奈留神社
奈留島は、久賀島若松島の間にあり、久賀島同様、全島が五島市に属する。日明貿易が行われた15世紀から16世紀半ばには、遣明船の最後の寄港地として重要な場所になっていた。奈留島港に面するこの奈留神社では、副使が宮司のもとに宿泊し、航海の無事を祈る祈祷が行われる慣習があった。奈留神社の祭神は、木之花佐久夜毘売命・瓊瓊杵命・大山祇命経津主命豊玉姫命など。由緒書に承和九年(842)の恵運、仁寿三年(853)の円珍らの鳴浦への寄港が記される。

奈留教会
島の中心部の近くに、奈留教会が建っている。江戸時代末期、大村藩から移住した潜伏キリシタン達は、葛島はじめ奈留島内各地に分かれ住み、開墾しながら小集落を形成した。明治元年の五島崩れの翌年、葛島の信徒12戸が役所に呼び出され、頭取(郷長)ら3人が算木責めの拷問を受けたが、奈留島ではそれ以上の迫害は伝えられていない。最初の奈留教会は、大正15年(1926)現在地に完成。現教会は昭和36年(1961)に、正面に四角の鐘塔と尖塔をもつ斬新で洗練された「X」のデザインが施されたコンクリート造として建設された。

ルルドの泉の聖母マリア
正式の教会堂名は、聖フランシスコ・ザビエル教会堂である。奈留島唯一神父がいる教会で、この後訪れる江上教会のミサは奈留教会の巡回神父が行うという。敷地内にあるルルドの泉の聖母マリア像の周囲も綺麗に手入れされている。

江上天主堂
さて、奈留島の北西部にある、世界文化遺産奈留島江上集落(江上天主堂とその周辺)にたどり着いた。台風2号の影響で一時的に降った通り雨も止んで、メルヘンチックな江上天主堂は、深い森に静かに囲まれていた。1797年、大村藩西彼杵郡などから潜伏キリシタン4家族が江上集落に移住した。明治14年(1881)にその4家族の信者がカトリックの洗礼を受けた。江上集落では1906年に民家を利用した簡素な木造教会堂(初代)が建てられた。現教会は、1918年、40戸余の信徒が共同し、キビナゴの地引網で得た資金で建てられた。日本における教会建築の父・鉄川与助に依頼し、設計施行された。クリーム色の外壁や水色の窓枠がアクセントの、今では少ない木造建築の素朴な教会である。

江上天主堂
江上天主堂は、湧水による湿気を意識して床を高く上げ、軒裏には装飾を兼ねた通風口を設けるなど在来技術を用いている。内部は三廊式の平面を持ち、リブ・ヴォールド(こうもり)天井構造で、美しい曲線が祈りの空間を包んでいる。柱に描かれた文様や光を巧みに操る技法など、文化財としても価値の高い建築様式である。

テッポウユリ
江上天主堂の周りにテッポウユリLilium longiflorum)が咲いていた。日本の南西諸島および九州南部が原産で、五島では福江島に自生種が見つかっているという。下記は4〜6月で、茎頂に純白で細長い花を横向きにつける。花長は1015cm、花弁が6枚あるように見えるが根元が繋がっており筒状になっている。雌雄同花である。

中通島、中ノ浦教会

奈留島で昼食後、フェリーに乗って上五島の中心に位置する中通島奈良尾港に着く。早速北上し、教会巡りを続ける。まずは小さな入江に面した中ノ浦教会。大正14年(1925)建立、大崎八重神父により祝別された。この地の信者の祖先は、寛政年間に入村藩外海地方の黒崎から移住した者たちである。桐古里、宿の浦における明治初年の迫害は、当時伝道士として活躍したガスパル与作の出身地が桐の浦だったことからで、主だった十数人が捕えられ算木責めの拷問を受けた。ガスパル与作は慶応元年(1865)に大浦天主堂が完成すると、五島から最初に大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父に若松島には千人以上の隠れキリシタンがいることを伝えた人で、解禁後の明治10年には伝道学校を開設した。中ノ浦教会は、昭和41年(1966)鐘塔を建てて現在に至る。海辺に映る姿が鮮明であることから、「水鏡の教会」と呼ばれている。

ルルドの泉の聖母マリア
この木造教会は、なくなってしまった久賀島の細石流教会(鉄川与助設計施工)とよく似た構造をもつ。内部の主廊は折上天井を有するが、祭壇部だけリブ・ヴォールド天井である。列柱上部には五島特有の椿の装飾が施されている。頭ヶ島の次に鉄川与助が取り組んだ教会である。赤いバラの花に囲まれた、ルルドの泉の聖母マリア像も厳かである。

真手ノ浦教会
さらに北上すると、道土井湾を望む高台に真手ノ浦教会が建っている。出入りする漁船の豊漁を祈願するように丘の上に佇み、外海地方から移住した信徒たちにより信仰の種が蒔かれ、先祖から受け継いだ信仰を守り伝えている。明治43年(1910オラショ館で創始され、昭和31年(1956)現在の教会が献堂され、山口司教により祝別され、平成22年(2010)にモダンな教会に建て替えられた。

マリア像「平和の元后」
白亜のマリア像の台座には「平和の元后」と書かれている。この真手ノ浦教会は、2015年に日本遺産に認定された「国境の島、壱岐対馬・五島」の構成文化財の一つである山王山の麓に位置する。標高439mの山王山は、伝教大師最澄が開山したとされ、山全体が山頂に鎮座する雄嶽日枝神社の神体とされる。