半坪ビオトープの日記

極楽寺、龍観山、福江島、楠原教会、城岳展望台、水ノ浦教会

極楽寺
若松港ターミナルの近くに極楽寺が建っている。浄土真宗本願寺派の寺院で、1625年ごろに建立された。重厚な瓦葺きの本殿の中に本尊の銅像如来立像が佇む。

極楽寺
本殿内に安置される本尊・銅像如来立像は、像高36.4cm、銅造・鍍金で、大きめの頭部に肉どり豊かな体部、胸元を広く開け、胸前を斜めによぎる僧祇支と腹部の結び紐が見える。威風堂々たる体躯を覆う衣文は変化に富み生気がみなぎっている。統一新羅時代(7世紀末〜九世紀初)の作とされ、渡来小金銅仏中にあって、数少ない貴重な如来像であるが、その伝来については不明である。国の重要文化財に指定されている。

龍観山の展望所から見る若松大橋
若松港の北に標高138mの龍観山があり、展望所からは若松大橋や若松瀬戸が一望できる。若松大橋の右端の向こうに微かに認められる、赤い屋根と白い尖塔を持つ建物は桐教会である。寛政年間に外海から桐と古里へキリシタンが移住したと伝わる。上五島随一の綺麗さを誇る桐教会は、明治30年にパリ外国宣教会のフューゼ神父により中五島最初となる桐小教区が設立され、現在の教会堂は昭和33年(1958)に建てられた。ガスパル与作とその父パウロ善七、ミカエル清川沢次郎を顕彰する「信仰の先駆者顕彰碑」が、教会入口横に建立されている。桐古里郷のガスパル与作が治療のために長崎に行った際、大浦天主堂に入ってプチジャン神父を訪ね、五島キリシタンカトリックへの復活を導いたという。残念ながら時間が取れず、この桐教会に訪れることはできなかった。

眼下に若松港
さらに右手を見ると眼下に若松港が認められる。若松港からは奈留島福江島への航路がある。この龍観山の展望広場は、春になると桜が咲いて花見で賑わい、早朝に訪れると野生の鹿にも出会うことがあるという。この後、中通島奈良尾港から福江に戻った。

五島コンカナ王国
最後に福江空港のすぐ近くにある五島コンカナ王国に泊まった。鬼岳の中腹に立つリゾートホテルで、自然に囲まれた広大な敷地のあちこちにワイナリーや鬼岳温泉、教会、レストランなど様々な施設が立ち並んでいる。このシンガポールのシンボルでもあるマーライオンの像は、1989年に福岡で行われたアジア太平洋博覧会89よかトピア)に出展されたものを移設したという。

五島コンカナ王国、鬼岳
一番右の建物が五島の葡萄を使ったワイナリー。その左手後ろの山が、標高315mの鬼岳。鬼岳火山群は、約50万年前から現在にかけて噴火して、なだらかな楯状火山(アスピーテ)の上にさらに5万年前、第2次噴火により臼状火山(ホマーテ)が重なり合ってできたもので、シンダーコンといわれる。5つの火山から形成され、全山緑の芝生に覆われて美しい。噴火口からは「ペレーの涙」と呼ばれる珍しい火山涙が産出しており、県の天然記念物に指定されている。

楠原教会
五島最終日は福江島の観光、主に教会巡りである。北東部にある堂崎教会を後回しにして、福江から県道384号線に沿って北上し、左回りに巡る。まず、北部にある城岳展望台の南に位置する楠原教会を訪れる。楠原地区は寛政9年(1797)の五島藩要請で、六方の浜から上陸した第1陣の外海キリシタンが移住し、仏教徒を装い開墾した地域である。明治元年1868)末に久賀島から始まった五島崩れは楠原にも及び、信者が捕えられた。1873年に禁教の高札が下ろされた後の、明治45年(1912)に鉄川与助の設計によりようやく現在の赤レンガ造りの教会が建てられた。リブ・ヴォールト天井で、ゴシック様式下五島に現存する教会では堂崎教会に次ぐ古い教会。昭和43年に祭壇部分をはじめ大規模な増築、補修工事が行われた。

「ファチマの聖母と羊飼い」の像
聖堂の左手には「ファチマの聖母と羊飼い」の像がある。案内板によると、ポルトガルのファチマ村にルチア(10歳)、フランシスコ(9歳)、ヤシンタ(7歳)という3人連れの羊飼いがいた。1917年5月から10月にかけて毎月13日の正午に聖母マリアが現れ、祈りと苦行と生活の改善を勧告した。ポルトガル国民は聖母マリアのこのメッセージに心打たれて宗教生活を励み、世界中のカトリック信者も和して神への道に精進しているという。

楠原牢屋跡
楠原教会の近くに、明治初期の迫害当時に信徒たちが閉じ込められ責苦を受けた、楠原牢屋跡が復元されている。明治元年1868)末、久賀島から始まった「五島崩れ」はクリスマスの日に水ノ浦に及び、まもなく楠原のキリシタンも調べを受けて、仮牢となった帳方(キリシタンの最高責任者)・狩浦喜代助宅に投獄された後、水ノ浦の牢に移された。牢屋となった屋敷の材木は、昭和29年(1954)水ノ浦修道院楠原分院に使用され、平成7年(1995)に解体、翌年、牢屋跡横に残された材木で縮小復元されて、現在に至る。敷地内には、昭和46年(1971)『信仰の自由100周年記念祭」の際に立てられた中田秀和作の記念碑「祈りの像」がある。

楠原牢屋跡内部
内部は当時の名残をとどめていて、牢に入れられた信徒たちの氏名が書かれたパネル、その横には祭壇が置かれ、当時の牢屋の写真も掲げられている。この建物に楠原地区35名、水ノ浦地区18名が入牢されていた。

城岳展望台より魚津ヶ崎
楠原教会の近く、浜田海水浴場からも近くの標高216mの城岳に城岳展望台がある。元は弘和3年(1383)に宇久五島家八代覚公が、宇久島から福江島に移って築いた岐宿城の城跡。岐宿の町並みや八朔台地、さらに奥の奈留島中通島まで、ジオラマのような白石湾の壮大な景色が見晴らせる。横に細長く伸びる魚津ヶ崎に守られた深い入江は、天然の良港であり、古代には遣唐使船が最後に停泊した地として知られる。魚津ヶ崎の手前の細長い島は寺小島という。魚津ヶ崎の左の先端の向こうの岬は西津ノ鼻という。

城岳展望台より姫島
さらに左を眺めると、ジグザグの小山が連なり、ますます大きく深い入江を囲んでいる。右手向こうに見える三角の島は姫島。その左に見えるのは、三井楽北部の岬である。

水ノ浦教会
城岳展望台の北側の麓に水ノ浦教会が建っている。水ノ浦教会の歴史は江戸時代末期に大村藩から5人の男とその妻子ら潜伏キリシタンの移住から始まる。慶応2年(1866)3人が長崎大浦の教会堂へ向かい、プティジャン司教にメダイや十字架を貰い受けた。明治13年(1880)に宣教師の指導を受けて、現在の敷地内に最初の教会が建設された。その後老朽化した教会は解体され、諸般の事情で建設中止となった雲仙教会用の材料を譲り受け、昭和13年(1938鉄川与助の設計により新築された。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の木造教会で、教会の構造は長崎市大浦天主堂と同型といわれる。近くには明治初期の迫害を物語る牢屋跡地と、その近くの丘には、五島出身ただ一人の聖人である「聖ヨハネ五島」の聖像が建立されている。