古仁屋港からは、南の加計呂麻島やその南の請島、与路島への航路がある。20代半ばに島尾敏雄と島尾ミホの小説に感銘し、加計呂麻島、与路島を訪れたことがある。与路島の民宿では、当時の島一番の三線の名手のおばあさんの演奏を聴き、見よう見まねで踊ったことを思い出す。
古仁屋から「フェリーかけろま」に乗って20分ほどで加計呂麻島の生間港に着く。生間港へ1日3便、瀬相港へ4便あるが、時間が合わなければ海上タクシーで渡ることになる。
生間港で軽自動車をレンタルし、時計と逆回りで加計呂麻島一周に出かける。マリンスポーツのペンションなどがある小さな集落、諸数を通り過ぎて、伝統の虎踊りが保存されているという勝能集落の広場に着くと、大きなガジュマルの木がある。島尾ミホの生まれた押角の小中学校の標識のすぐ下にある塩ビ管は新聞受けである。加計呂麻島では新聞配達は路線バスの運転手がする。窓から道路脇の新聞受けに新聞を差し込んで行くのだ。
島尾ミホの生まれた押角、島尾敏雄の震洋隊基地のあった呑之浦を通り過ぎ、加計呂麻島の中央に位置する瀬相港に着く。フェリー乗り場の向かいにあるのが「いっちゃむん市場」。島の農産物や特産品を扱う貴重な店である。
民俗資料館(閉まっていた)のある俵、防空壕が多くある三浦、を通り過ぎ武名の集落に着く。海が迫っているので、集落は防潮堤に守られている。
この集落の奥に「武名のガジュマル」という大木がある。集落では古くから神が宿る木として大切に守られてきたという。ガジュマルには「ケンムン」が住むというが、まさしく「ケン(木)」の「ムン(もの)」が住んでいる館のようだ。
木慈、瀬武と小さな集落を通り過ぎ、薩川集落に着く。薩川小学校には、旧奉安殿が残されている。奉安殿とは、大戦末期まで天皇(御真影)の写真と教育勅語謄本を納めていた建物で、1930年前後に学校の敷地内に作られた。薩川湾は、第二次世界大戦終了まで軍港として利用された。島尾敏雄が大戦末期に特攻隊長をしていたところで、「出発は遂に訪れず」などの小説にも描かれた。
薩川から北にある芝集落が加計呂麻島の北端となる。そこから急な山道を上がって行き、高台の展望台、夕日の丘から北西端の実久湾を見下ろす。地元でも「実久ブルー」と呼ばれる海の色は、雨の日でもこのような曇り空でも様々な青色を見せてくれる。沖に浮かぶ島は江仁屋離島という。
下り始めると左手(東)に薩川湾が見える箇所がある。右下に薩川集落、正面には薩川湾を大きく囲む小場尻の岬が見え、その左手には大島海峡と奄美大島の山並みが見える。
実久集落に近づくと右手に実久三次郎神社がある。奄美大島には源為朝伝説がたくさん残されているが、この神社の由来も瀬戸内町では次のように伝えている。永萬2年(1166年)、為朝が喜界島の小野津港に上陸し、美しい機織り娘と夫婦となり一子をもうけた。為朝は小野津神社を造って大島北部に上陸し、本島を南下して各地に伝説を残しながらこの実久に来た。ここに長子、実久三次郎とその母の墓があり、三次郎を祀った実久三次郎神社がある。
実久三次郎は怪力の持ち主で、宇検村の名柄八幡(八丸)と力比べをした時の石が二つ神社に安置され、そこに三次郎の手形と足型が残っているという。
これが石段の右手にある実久三次郎の墓である。母の実久ナベシリカナの墓は、石段を上りつめた所にある。
実久三次郎神社の境内で、変わったイモリを見つけた。家で10数年飼育しているアカハライモリの仲間のアマミシリケンイモリ(Cynops ensicauda ensicauda)である。オキナワシリケンイモリ(Cynops ensicauda popei)は背面に明色斑が入る個体が多いが、アマミシリケンイモリでは斑紋が入らない個体が極めて少ないとされる。奄美群島にはもう一種、イボイモリ(Ehinotriton andersoni)が生息するが、そちらは体側面に肋骨が隆起し、ゴツゴツして爬虫類のように見える。そのイボイモリは、環境省の絶滅危惧Ⅱ類に指定され、沖縄県および鹿児島県の天然記念物にも指定されている。イモリ類は個体差が激しいので判別に苦労するが、腹面を見ておけばアカハライモリの仲間かどうかわかったはずである。奄美大島では両種ともチョウチンブラとか、ソチムラなどと呼んでいて区別していないようだ。