半坪ビオトープの日記

呑之浦震洋隊基地跡、安脚場、諸鈍

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呑之浦

奄美大島加計呂麻島の間に横たわる大島海峡はリアス式の海岸線を持ち、天然の良港として明治中頃から日本軍に注目されていた。加計呂麻島北側の薩川湾は、第二次世界大戦中、軍港として栄え、大和や武蔵など戦艦が停泊したこともある。ここ呑之浦はじめ島内各所に特攻兵器震洋が配備され、出撃命令を待っていた。

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震洋隊基地跡

作家島尾敏雄は、194410月、第十八震洋隊指揮官としてこの呑之浦の特攻基地を設営し、翌年8月13日には特攻戦発動の命令を受けるが、発信の合図が出ないまま8月15日の終戦を迎え、九死に一生を得た。その特攻体験は『出発は遂に訪れず』などの小説に描かれた。

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特殊兵器「震洋

回天とともに実用された特殊兵器の「震洋」は、艇首に炸薬を搭載して全速で敵艦船に衝突自爆するモーターボートで、一人乗りと指揮艇の二人乗りがあった。震洋艇収納用の洞窟はいくつか残されているが、震洋艇そのものが置かれていたのは一箇所だけだった。

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イヌホオズキ

洞窟の入り口にナス科の空色の花が咲いていた。多分、ナス属のイヌホオズキSolanum nigrum)であろう。この種は畑の雑草としてかなり古くに南から渡来したとされるが、仲間には北アメリカから渡来したアメリイヌホオズキやワルナスビがあり、花や葉の様子がよく似ている。

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島尾敏雄文学碑

震洋艇の手前の森の中に島尾敏雄文学碑公園がある。島尾敏雄は、呑之浦の特攻基地で出動待機中に、押角国民学校に勤める大平ミホと出会い、生と愛が燃え輝いた。敗戦の翌年、神戸で結婚したが、各地を転々した。1955年から1975年までの二十年間、奄美の名瀬に住んだ。代表作『死の棘』は壮絶なまでの愛の高みを描いたとされる。

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コンロンカ

呑之浦から押角へ向かう途中で、野生のコンロンカ(Mussaenda parviflora)を見つけた。種子島以南、及び中国、台湾に自生するアカネ科コンロンカ属の常緑半蔓性低木。白い萼片が樹木のハンカチノキと似るため、別名でハンカチノハナとも呼ばれる。和名は、白くなった葉を中国の崑崙山に積もる雪に見立てた名前。中国では玉葉金花と呼び、蔓や根を漢方薬の材料とする。白い萼片、黄色の花、常緑の葉の色合いが美しく、庭木として人気がある。

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安脚場(あんきゃば)戦跡公園

押角から生間を通り越し、東へ東へと急ぎ、加計呂麻島の東端、安脚場(あんきゃば)戦跡公園に着く。薩川湾の連合艦隊泊地を守るため、大島海峡入口にあたる安脚場に軍事施設が置かれていた。今でも弾薬庫などが残存し、戦跡公園として整備されている。

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ウスキシロチョウ

公園を囲む木々の間を珍しいシロチョウが華麗に舞っていた。翅裏は薄い黄色で、翅表は白色だが、わずかに空色がかって見え美しい。モンキチョウ属のウスキシロチョウCatopsilia pomona)、それもムモン型の雄と思われる。インド、東南アジア、台湾など東洋熱帯に広く分布し、日本では鹿児島県及び沖縄県に土着している。

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諸鈍デイゴ並木

安脚場から南に向かい、諸鈍シバヤで知られる諸鈍集落に至る。諸鈍長浜の海沿いに続く諸鈍デイゴ並木は、樹齢300年以上という見事な巨木群であり、5〜6月頃に真っ赤な花を一斉に開花させるが、花の時期はたった一週間という短さで、まだGWには咲いていなかった。この並木の一角に映画『男はつらいよ』のロケに使われた家があり、記念石碑もあるという。

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大屯(おおちょん)神社

諸鈍シバヤは、源平の戦いに敗れて落ち延びてきた平資盛一行が、土地の人々と交流を深めるために伝えたのが始まりと伝承され、主に旧暦9月9日にこの大屯(おおちょん)神社で披露されている。

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大屯神社

1185年、平資盛一行は喜界島に逃れた後、平有盛奄美大島の名瀬に、平行盛龍郷町に、平資盛加計呂麻島の諸鈍に居を構えたという。この大屯神社はその資盛を祀った神社である。

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平資盛などの墓碑

境内には文政11年建立の平資盛の墓碑もあるというが、自然石の墓碑も数多く祀られていた。

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諸鈍シバヤ

諸鈍シバヤは、国の重要無形民俗文化財に指定されているユーモラスな仮面の伝統芸能であり、諸鈍集落にある加計呂麻島展示・体験交流館では、諸鈍シバヤの様子が写真や人形、仮面で展示されている。「サンバト」「シンジョウ」など今でも11演目が受け継がれている。

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ノロの祭祀装束

展示・体験交流館には、ノロの祭祀装束(芭蕉布で仕立てられた神衣=カミギン)や写真も展示されている。ノロは民間の巫女であるユタとは違い、琉球王朝の承認を受けた神事を司る祝女だが、21世紀になると奄美地方ではほとんど絶えてしまったという。